【熊本】城下町の面影残す中心市街地、九州第3位・熊本市の今昔――(1)
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西郷負かした清正公
九州のほぼ中央に位置し、2012年4月に九州で3番目(全国20番目)の政令指定都市となった熊本市。抱える人口も73万8,385人(21年3月1日現在)と、福岡市、北九州市に次いで九州で3番目だ。熊本県の県庁所在地であり、県内の政治・経済・文化の中心地として発展を遂げてきた同市だが、かつてはその立地から「九州の中核都市」と位置づけられ、九州域内を管轄する国家機関・教育機関が相次いで設置されていた時代もある。
水道水源を100%地下水で賄っていることで「水の都」とも呼ばれるほか、自然と共存したまちづくりを進めて「森の都」とも、あるいは両方を合わせて「水と森の都」とも呼ばれる同市はこれまで、どのような歴史をたどってきたのだろうか――。
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現在の熊本市中心部のまちとしての基礎は、熊本城およびその城下町としての面影が強く残っている。中心部を走る道路が、たとえ主要道路であってもクランクや直角カーブなどが多く、変に曲がって直線区間が短かったり、不連続だったりするのが、「敵から攻め込まれない」ための城下町としての防御機能の名残だ。そして、その熊本城を築いたのは、肥後熊本藩の初代藩主であり、地元では「清正公(せいしょこ)さん」として親しまれている加藤清正(きよまさ)である。
もともと戦国時代の同エリア「肥後国」には、数十の地方領主が割拠しており、1586年2月には薩摩・島津氏によって征服されていた。それを、翌87年に20万の大軍を率いた豊臣秀吉による「九州平定」によって島津氏は降伏。秀吉の命によって佐々成政が同年6月に肥後国主となった。だが、そのわずか2カ月後、失政によって国衆一揆が起きたことで秀吉は成政に切腹を命じ、代わりに肥後国の統治を任されたのが、加藤清正だった。
隈本城(熊本城の前身、現在の古城町付近)に入城した清正公は、肥後一国の領主としてふさわしい新たな城の築造を計画。1601(慶長6)年に着工し、07年に新たな城が完成した。築城名人として知られる清正公は、井芹川と坪井川を天然の内堀に、白川を外堀としたほか、旧・隈本城を二の丸の一部に組み込み、難攻不落の大城郭を築き上げた。また、このときに「隈本」の名前を、現在の「熊本」へと改称したとされている。
清正公の朝鮮の役での経験を生かして構築された実戦的な構えの熊本城は、太平の江戸期には、その真価を発揮することはなかった。だが、明治期の西南戦争(1877年)の折、政府軍の拠点となった熊本城は、西郷隆盛率いる薩摩軍によって攻められ、3日間の一斉攻撃に耐えたほか、52日間の籠城戦でも落城せずにもちこたえたとされ、270年もの時を経てその堅牢さが健在であることを示した。その際、西郷隆盛をして「清正公と戦(いくさ)しよるごたる」「おいどんは官軍に負けたとじゃなか。清正公に負けたとでごわす」と言わしめたという逸話も残っている。ただし、この西南戦争の際に本来の天守閣は焼失している。
(つづく)
【坂田 憲治】
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