2024年05月24日( 金 )

業界仰天!スーパーゼネコンの大成建設前社長・村田氏がハウスメーカーの大和ハウス工業副社長に転身(中)

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 今年、ゼネコン業界の話題をさらったのが、スーパーゼネコン・大成建設(株)前社長だった村田誉之氏のハウスメーカー・大和ハウス工業(株)副社長への転身。業界人を仰天させた。

大成建設が新国立競技場の施工を受注

 政府は2015年8月、整備費の上限を1,550億円とする新たな整備計画を公表。新国立競技場の事業主体の日本スポーツ振興センター(JSC)は9月1日、再コンペの募集要項を示した。いち早く参加を決めたのが大成建設だ。ザハ・ハディド氏のデザインを基にした旧案では、大成建設はスタンドを建設することになっていた。

 新国立競技場再入札の舞台裏を日本経済新聞電子版(15年11月13日付)はこう報じた。

 〈政府の再入札の募集要項を発表した直後、大成建設は「国家プロジェクトなので積極的に参加したい」(村田誉之社長)として、そうそうとチームの組成を固めた。官邸は白紙撤回を公表する前に、大成建設など旧案の関係会社に仁義を切ったと建設業界では言われており、準備時間が他社より長かった可能性がある。

 旧案で屋根を建設するはずだった竹中工務店も同様だ。ザハ氏の特徴的なデザインを実現するため、実施調査をやり尽くしていた。蓋を開けてみれば、応札したのは旧案を施工するはずだった大成建設と竹中工務店を筆頭とする2グループに絞られた。〉

    鹿島建設(株)も応札に意欲を示していたが、出足の遅れがたたり、時間切れで応札に間に合わなかった。

 JSCは、公募に応じた大成建設の案を「A案」、(株)竹中工務店、清水建設(株)、(株)大林組の3社による共同企業体の案を「B案」として、審査委員会に提案。政府は15年12月22日、大成建設の「A案」を選定した。

 総整備費は1,489億円。デザインは建築家の隈研吾氏が手がけた。村田社長と隈氏は東大工学部建築学科の同級生だ。

 19年11月30日、新国立競技場が完成した。村田社長にとって最高の勲章だった。

好業績でも引責辞任、大成建設の前代未聞の社長交代

建設会社 イメージ 大成建設で不可解な社長交代劇があった。

 「(21年3月期は)現中期経営計画の最終年度だが、経営数値目標を大幅に下回っている。執行部門の長として、けじめをつけて辞任する」。

 20年5月13日に開いた記者会見の冒頭、村田社長はそう説明した。

 大成建設の20年3月期業績は、売上高が1兆7,513億円(前期比6.1%増)、営業利益1,677億円(同9.4%増)。19年に竣工した新国立競技場やホテルオークラの新本館を筆頭に、大型の完成工事が業績を牽引。18年3月期に次ぐ、過去2番目の営業利益をたたき出した。

 決算が好業績だったにもかかわらず、「これから業績が悪くなるだろうから」という理由で、社長を引責辞任する。結果責任を負うのは経営トップの責任だか、予想段階の業績悪化で引責する例は聞いたことがない。前代未聞の珍事である。

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 6月24日の定時株主総会と取締役会で、相川善郎取締役専務執行役員が社長に昇格。村田社長は代表権のある副会長に就いた。経団連の副会長を務める山内隆司代表取締役会長は続投。山内会長、村田副会長、相川社長の3人は、東京大学工学部建築学科卒の先輩・後輩だ。

 相川氏の父親は三菱重工業(株)名誉顧問の相川賢太郎氏。三菱重工の社長を1989年から3期6年、会長を2期4年務めた三菱グループの重鎮だ。第2金曜日には三菱グループの主要会社の社長や会長たちが集まる「金曜会」というものがあり、相川氏はその世話人代表を96年から99年まで務めた。

 三菱御三家である三菱重工、(株)三菱UFJ銀行、三菱商事(株)の3社が金曜会を仕切るが、旧三菱財閥の家長の役割を担っていたのが三菱重工だ。三菱重工のドンである相川賢太郎氏は「三菱グループの天皇」と呼ばれた。その御曹司の善郎氏が、大倉喜八郎氏が築いた大倉財閥の流れを汲む名門・大成建設の新社長に就いた。

大成建設、お家芸の内紛勃発

 なぜ、大成建設で奇妙奇天烈(きてれつ)な社長交代が行われたのか。ここ数年、大成建設は山内会長のワンマン色が強まっており、業界関係者の間で「大成さんお得意の内紛勃発か」とみられたのも無理はない。

 大成建設は、1990年代後半に同じ早稲田大学建築科の先輩・後輩である佐古一会長と里見泰男社長との激しい派閥抗争や不良債権問題などで経営が悪化。東大閥が早稲田閥から政権を奪取。本社ビルの売却などで危機を脱した後、2001年に東京大学工学部土木学科出身の葉山莞児氏が社長に就任。積極的な海外受注で再び不採算工事を抱え、苦しい状態に陥った。

 07年、葉山氏が退任し、山内氏が社長に就いた。東大閥のなかで、土木科を追い落とした建築科が実権を握ったといわれた。

 以来、社長は村田氏、相川氏と3代続いて東大工学部建築科出身者が占める。山内会長が“院政”を敷く体制という見方がほとんどだった。

(つづく)

【森村 和男】

(前)
(後)

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