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2016年09月14日 15:02

ヘルシンキ直行便の光を絶やすな!(10)~ビィリニュス・ゲットー

不思議ではありませんか!!逃げ損なったユダヤ人の運命

 当然、読者の方々は疑問を抱くであろう。「杉原千畝が助けたユダヤ人はたった6,000人であった。残りのユダヤ人は数十万人いたと思うがどうなったのだろうか」という素朴な疑念である。その回答は目を覆いたくなるものだ。「ヒトラー・ドイツに数十万の人たちが虐殺された」という事実である。ユダヤ人虐殺の現場はポーランドだけではないのだ。バルト海3カ国でも虐殺が行われた。特に西に位置するリトアニアでは大量虐殺されたのだ。

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 それも杉原が40年9月にカウナスを離れた以降にドイツが侵攻してたちまち制圧している。当然、逃げ損なったユダヤ人の数は膨大なものである。当時のビィリニュスの人口の1/4にあたる5万7,000人がいた。そこにポーランドにいたユダヤ人が脱出してきて、加わるので12万から15万人に増えたといわれる。非常に目立つ存在になったから隠れようがない。ドイツ軍の摘発の罠にはまってしまった。杉原のところへビザを支給してもらい逃げ切ったユダヤ人6,000人はごくわずかであったことは容易に理解されるであろう。

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町の中にある地下収容所

 21日、ビィリニュスの住宅街にある地下収容所・虐殺所を視察した。写真で見ていた通り清閑な住宅街である。陸上は4階、5階建てのアパートになっている。この地下室にはピーク時で3,000人が収容されていたようだ。そして大量虐殺が毎日、行われていたそうである。独房の写真を参照すれば理解いただけよう。人間らしい生活が送れるわけがない。真っ暗闇の独房に一週間叩き込まれたならば頭がおかしくなるか、すべて吐いてしまうであろう。

 骨になった死体の山の写真が残されてあったのには驚いた。銃刑で頭から噴き出た血が壁にかかる。その血跡を何十回も塗り捲っても消すことができない異様な光景に反吐がこみ上げてくる。ボーランド軍の将校たちも、この地下牢で処刑されたそうである。ハンマーで頭を砕いて投げ込む空間も見た。「ユダヤ人憎し」で人間はここまで殺りくできるものかとがく然とした。掲載している写真をみて皆さんはどう感じたことだろう?

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 44年6月ドイツ軍はリトアニアから撤退した。代わりに支配者になったのはソビエト連邦(以下、ソ連)赤軍である。不幸にもリトニアは解放されたわけではないのだ。リトアニア国民はドイツ・ゲシュタポに恐れなしていたのだが、今度はソ連秘密警察の目を警戒させられる破目になった。この収容所設備は反ソ連勢力弾圧に利用されるようになったのである。ユダヤ人用の収容所から反ソ連活動するリトアニア人弾圧の牢屋化したのである。

 この地下収容所が自由に公開できるようになったのは1991年12月からである。ソ連が自ら崩壊宣言をしたお陰で独立できたのだ(本シリーズ7を参照)。この地下収容所にたたずむと人間のやる愚かさに強い怒りが込み上げてくる。またリトアニアという国の侵略される歴史を学ぶにしたがって自分の無知ぶりには赤面の思いがする。これから以降、リトアニアの独立が保証されるという確信は持てない。

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ユダヤ人へのホロコーストの複雑さ

 リトアニアで起きたユダヤ人へのホロコースト(皆殺し・ゼロまで消滅)は「ユダヤ人問題の最終的解決」を最初に実行したといわれる。41年9月からドイツの侵攻が開始されて、その年の10月までにリトニア・ユダヤ人が8万人が殺された。年末までには17万5,000人が殺害されたと言われている。この頃はまだゲットーが建設されていないので、居住地域近くで射殺されていた。ビリニュス近郊のポナリの森の虐殺などは有名である。

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 リトアニア・ユダヤ人虐殺には複雑さが漂っている。ドイツ侵攻4カ月足らずで17万人も摘発・抹殺できたのもリトアニア人がドイツに加担したからできたのだ。リトニア人たちは「ドイツの植民地化阻止闘争」よりも「ユダヤ人せん滅」を優先したからである。また一部のユダヤ人たちが協力したこともある。ユダヤ秩序を守るためにゲットーの中に「ユダヤ警察」という組織があった。この組織はドイツ人からの指揮を遂行していたのである。同じ民族の一部が侵略者に迎合することはよくあるケースであるが――。

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 そして解放軍と言われたソ連の対応である。このソ連がユダヤ人を真剣に保護したとは言えない。またリトアニアをソ連の一翼に囲い込んだ後も、ユダヤ人を迫害したリトアニア人の責任追及を厳しく行っていないことも事実である。このリトアニアにおいてもユダヤ人がただ憎らしい民族という動機で25万人以上が虐殺されたのである。今に至っても根源的な解明は進んでいない。ユダヤ人が優秀ゆえに妬まれ、虐殺される歴史の悲劇を二度と繰り返してはいけない。そのことを肝に銘じた現地視察であった。

(了)

 
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