2024年05月21日( 火 )

ヨーロッパから見た日本の政治事情(3)

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福岡大学名誉教授 大嶋 仁 氏

マルセイユ イメージ    かつては森鷗外など日本からの留学生がインド洋を航海し、スエズ運河を越えて地中海入りし、ヨーロッパにようやく辿り着いたその玄関口がマルセイユである。アラブ人やアフリカの黒人でごった返す、妙に活気に溢れた、危険な香りのするこの港町にやってきたのはつい昨日のことだ。フランスであってフランスではない、なんとも人間味溢れる都会だ。

 道を歩いていると、ニコニコ顔の黒人が新聞らしきものを配っている。私も手を出すと、「タダですよ」と笑う。フリーペーパーだ。それにしてはページ数が多い。10ページ以上もある。しかも、内容はタウン情報ばかりでなく、政治問題、経済問題、とくに社会問題を扱っている。カフェに腰掛けて、とっくりと読むことにした。

 真っ先に目に入ったのは年金に関する記事である。隣国スペインの年金政策を批判した記事であり、「フランスも気をつけないとその二の舞になる」と警告している。親切なことに、スペインの年金政策がどういうものか、その概要も書いてある。

 それによると、スペインはEU内で最も年金が充実しているのだが、ウクライナ戦争などの影響で政府の財政が逼迫し、その結果、年金の大幅ダウンとなったというのだ。どのくらいのダウンなのかと見てみると、何と最高で50パーセントという。つまり、半減である。
 プロ野球選手の年俸ならあり得る数字だが、年金での半減はあまりに酷い。「スペイン国民がこのような無茶な政策を黙認していること自体、信じられないことだ」と記事にも書いてあった。

 日本でも政府は年金を減らしていこうとしている。しかし、減額率は国民がほとんど気づかないほどに抑えてある。それでもこれを10年間続ければ、相当の減額になる。だが、高齢者はその間にも死んでいくというわけで、スペイン政府などに比べれば、余裕があるというか、巧妙なやり方で対処している。

 フリーペーパーの目ぼしい記事をざっと読み終えたので、昼飯でも食べようとランチメニューのあるレストランを探した。すると、「ムッシュー、オオシマサン」と声をかけて来る老人がいる。見ると、10年以上前にこの町で会ったMである。あまりに急だったのでびっくりしてしまったが、旧知の人に異国で会うのは嬉しいにちがいなかった。

 Mは医者で、祖父も父親も医者である。日本にも数回来たことがあり、「築地の寿司は今でも美味いですか?」などと聞いた。昼食はマルセイユ名物ブイヤベースということになり、久しぶりに食べるこのスープはやはり美味しかった。
 気分もくつろいだところで、年金のことをつい口にした。すると、医者らしい話が返ってきた。氏によると、ここ数年の医学の進歩はめざましく、人類の寿命は著しく伸びている。したがって、先進国ではどこでも老人が増えすぎて、これでは社会保障制度がパンクするというのだった。

 私が日本の高齢化問題を口にすると、日本の医療政策もパンク寸前だと氏は言い放った。どこからそういう情報を得ているのか聞かなかったが、高齢化社会は医療が実現したものだが、それが逆に医療制度を苦しめており、年金問題もそこに絡んでくるということだった。
「これからは、どこの国でも年金カットですよ。だって、老人がこれほど長生きするとは、誰も思ってなかったんですから」

 彼の言葉は説得力があった。しかし、その後彼の口から出てきた言葉には思わずギョッとした。「日本では一人暮らしの老人がコロナに罹ってなくてもコロナで死んだことになっているそうですね。」
 私が黙っていると、氏はこうも言った。「フランスなんか、いや、イギリスもそうですけど、老人が多すぎるものだから、コロナに罹ったらどんどん死なせてきたんです。だって、コロナに罹ったら、たとえ死ななくても病気がちになり、やがては死ぬ。そういう人を助けるよりは、若い働きざかりをコロナから守ったほうが良いに決まっています。政府としては当然の政策ですよ」

 この話からわかったのは、Mが歯に衣を着せぬ現実家だということだった。氏の言っていることのすべてが正しいかどうかはわからなかったが、少なくとも氏は医者らしく世の中を見ているのだ。
 食後のコーヒーが終わると、氏とはそこで別れ、ホテルに戻った。「政治は残酷なものなんです、オオシマサン。要は、その残酷さをいかに国民の前で取り繕うかですよ」。氏のこの言葉はいつまでも残った。

 ホテルに戻ってパソコンを開くと、ニューヨーク在住の日本人フリージャーナリストTからメールがきていた。そこにはトヨタと日本政府の密接な関係に関する意見が開陳されていた。それを読みながら、2年前に台湾で知り合ったある日本人のカルロス・ゴーンに関する言葉を思い出した。日本政府と大手自動車製造会社の密着あるいは癒着。このテーマ自体重要だが、もはやそれについて書く余白はなくなった。稿を改めて論じることにする。

(つづく)


<プロフィール>
大嶋 仁
(おおしま・ひとし)
1948年生まれ、神奈川県鎌倉市出身。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。75年東京大学文学部倫理学科卒。80年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇に立った後、95年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し名誉教授に。

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