2024年05月17日( 金 )

李克強急逝で見せたおろかな報道 政治大混乱に期待するメディア(前)

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共同通信客員論説委員
岡田充 氏

 日本ビジネスインテリジェンス協会より、共同通信で台北支局長、編集委員、論説委員などを歴任し、現在は客員論説委員を務める岡田充氏による、「李克強急逝で見せたおろかな報道、政治大混乱に期待するメディア」(海峡両岸論156号)を提供していただいたので共有する。

    「李克強氏死去、しぼむ中国『改革派』」[i]「第2の天安門事件となる懸念」[ii] 中国の李克強前首相が10月27日、心臓発作のため68歳で急逝(写真 李氏急逝を一面トップで報じる人民日報紙)した記事のタイトルだ。これに暗殺説[iii]まで飛ぶ「おろか」な報道をみるにつけ、中国の不安定と混乱に期待するメディアの対中姿勢が浮き彫りになる。李氏の遺体は11月2日荼毘(だび)に付されたが、大混乱は起きなかった。中国指導者の死が政治的大混乱につながる条件を分析しながら、習近平総書記に権力が集中する中国共産党の特殊な統治構造を考える。

素早い情報公開の背景は?

 李氏急逝を聞いて頭をよぎったのは、周恩来首相(1976年)と胡耀邦総書記(1989年)の死去が、中国の民主化運動(第1次、第2次天安門事件)の引き金になったことだ。元共産党リーダーの死が、一党独裁を揺るがす要因にならないかを分析するのは、チャイナ・ウォッチャーの「習性」でもある。

 しかし「第2の天安門事件となる懸念」と踏み込むには根拠が必要。1989年6月の天安門事件の際、筆者が北京で取材した経験を踏まえて分析すれば、李急逝が習近平一強体制の安定を損なう可能性は低いという見立てに落ち着く。共産党統治に内在する論理と、国際政治秩序の急転からその理由を読み解きたい。

 共産党当局は今回、李急逝が習一強批判や社会の不安定につながらないよう、素早く手を打った。香港英字紙「サウスチャイナ・モーニングポスト」の急逝翌日(10月28日)の報道がそれを物語る。記事は、李氏は静養中の上海にある党幹部用施設「東郊賓館」で、水泳の最中に心臓発作を起こし、近くの上海中医薬大付属曙光病院に搬送された。死去が確認された後、遺体は27日に北京に運ばれた、と詳細に伝えた。

 同紙によると、李氏はかつて冠動脈のバイパス手術を受けたという。急死をめぐる「ウワサ」が1人歩きしないよう、党中央が香港紙を使って詳細な情報を開示したのだ。

 当局側が神経質になったのは、国内総生産(GDP)の3割を占める不動産の深刻な不況に加え、デフレ懸念や青年層の高失業率という「経済三重苦」がある。経済発展は共産党独裁の「正当性」を保証する最大要因だ。だから経済不振は統治の不安定化を招きかねない。

 さらにちょうど一年前、若者が白紙を掲げ共産党と習批判のスローガンを叫び、ゼロコロナ政策に反対する「白紙デモ」の勃発も、鮮明な記憶として残っていたはずだ。

「中央分裂」など3条件

 では李急逝は、周恩来と胡耀邦死去後に起きた反中央行動の引き金になる条件はあるのだろうか。筆者はその条件として①政策・路線をめぐり党中央が分裂②主流派から批判された「被害者」③大衆的な人気-の3条件を挙げたい。なかでも「中央の分裂」は共産党の一党独裁の崩壊につながりかねないから、詳細な分析が必要だ。

 周恩来の場合はこの3条件をすべて満たしている。中国は当時、文化大革命の末期にあたり、体力・知力とも衰えた毛沢東主席に代わって毛沢東夫人の江青氏ら「4人組」が実権を握り、党中央主流派を形成していた。

 「4人組」は、モンゴルで墜落死(1971年)した林彪副主席と、文革の終息と経済建設を主張する周を「孔子」にみたてて批判する「批林批孔」運動を1973年に開始。周は批判の矢面に立たされた「被害者」だった。同時に、周は毛沢東以上の大衆的声望があり、3条件のすべてが当てはまる。

    では1989年4月に心臓病で死去した胡耀邦(写真 1989年4月天安門広場の人民英雄記念碑に設けられた胡氏を悼む肖像写真と花輪)の場合はどうか。胡は1986年末に起きた民主化要求の学生デモを「積極的に支持」したとして、主流派を形成する鄧小平ら長老に批判され、1987年1月総書記を解任された。③の「大衆的人気」についていえば、民主化要求の学生から絶大な支持があり、やはり三条件を満たしている。

(つづく)

(中)

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