2024年02月27日( 火 )

阪急阪神ホールディングスの礎を築いた小林一三(前)

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運輸評論家 堀内重人

 阪急阪神ホールディングスは、「都市交通」「不動産(ホテル事業も含む)」「エンタテインメント」「情報・通信」「旅行」「国際輸送」の6つの事業をコア事業と位置付けている。その中核会社は、完全子会社である(株)阪急電鉄、(株)阪神電鉄、(株)阪急阪神交通社ホールディングス、(株)阪急阪神ホテルズの4社だ。鉄道、文化、ホテルなど多岐にわたる事業の礎を築いたのが、阪急電鉄(設立時は、箕面有馬電気軌道)を創設した小林一三である。

箕面有馬電気軌道の創設

阪急電鉄 イメージ    阪急阪神ホールディングスの前身の1つである阪急電鉄を語るには、小林一三の存在を無視することはできない。

 小林一三は、1907年に三井銀行(現三井住友銀行)を退職し、箕面有馬電気軌道(現阪急宝塚線・箕面線)を創立した。設立の経緯であるが、1907年に「鉄道国有法」が施行され、日本各地の民間鉄道が国有化されたことが影響している。余談となるが、当時、鉄道を国有化した理由は国営のほうが大規模な先行投資がしやすいだけでなく、日本各地に統一した規格の鉄道を整備しないと、戦時の物資輸送に悪影響が出るとされたからであった。

 阪鶴鉄道(尼崎から福知山を経て舞鶴を結んでいた鉄道路線)も、国有化されて現在のJR福知山線になった。国有化されたとはいえ、当時はSLが客車を牽引して運行されており、運行頻度も低かった。運行頻度が低い状態は、国鉄が分割民営化される直前の1986年11月に、福知山線が全線電化されるまで続いた。阪急宝塚線はドル箱路線であった。三田地区に住む人が国鉄福知山線を利用して宝塚まできて、そこで阪急電鉄に乗り換えて、梅田へ向かっていたためだ。

 かつての阪鶴鉄道の関係者は、福知山線に並行するかたちで電気鉄道を敷設し、大阪の梅田を起点に、箕面・宝塚・有馬方面へ電車による高頻度運転を計画していた。なお今日、日本に存在する民間鉄道は、1907年に最初に民営で敷設された鉄道が国有化された後に設立された鉄道である。

 当時、日露戦争(1904年2月から05年9月)で多額の戦費を費やしたにも関わらず賠償金を得られなかったこともあり、国内は不況に喘いでいた。そうなると発行された箕面有馬電気軌道の株式の半分は、引き受け手がない苦境に追い込まれていた。そこでその話を聞いた小林一三は、箕面有馬電気軌道の電車による高頻度運行について、1,435mmの標準軌を採用するほうが高速運転を行ううえで有利で、国鉄(当時は鉄道院、1,067mmゲージの狭軌を採用)に対する競争力があり、将来は有望であると判断した。そして北浜銀行を説得して、同行に株式を引き受けさせることに成功した。

 箕面有馬電気軌道は1910年に運行を開始するが、当初は今日の宝塚線と箕面線だけであり、神戸線はいまだ開業していなかった。そこで、鉄道が通る予定の沿線の土地を買収し、郊外に宅地造成を行った。これにより自社の鉄道の付加価値が高まり、1910年に宅地分譲を開始した。このやり方は、不動産開発利益還元方式と呼ばれ、今では香港や東南アジアでも盛んに行われている。これも小林一三の先見の明であった。

 小林一三は、サラリーマンでも住宅が購入できるように、当時はまだ珍しかった住宅ローンによる分譲販売を行い、成功を収めた。当時の鉄道事業者は、電灯事業などを行うことはあったが、住宅事業を展開する事業者はなかった。小林一三の独創的な着眼点により、箕面有馬電気軌道は田園や山林が多かった地域に敷設されたにも関わらず好調なスタートを切った。

 1910年11月には箕面に動物園、翌1911年には宝塚に「宝塚新温泉」、そして1914年4月には、当時人気があった三越の少年音楽隊を参考に、宝塚唱歌隊(現宝塚歌劇団)を創設し、沿線を阪急グループの聖地として大きく発展させた。

 沿線開発は、即座に乗客の増加につながった。神戸方面への路線開業に動き出すのを機に、会社名を阪神急行電鉄と改め、今日では「阪急電車」として親しまれる。神戸線が1920年に開業すると、乗客が増加したこともありスピードアップを図った。これらの経営が現在の阪急電鉄をつくり上げる土台となり、1927年に小林一三は社長に就任した。

阪急百貨店・六甲ホテルの開業

 1920年は、小林一三が日本初のターミナル百貨店の計画を打ち出した年でもあった。阪急百貨店(現阪急うめだ本店)が、宝塚線・神戸線の起点となる梅田駅にターミナルビルを建設され、1929年3月に開店した。

 鉄道会社が直営で百貨店を経営する事例は世界初であった。前途に対し、不安や疑問を持つ者も少なくなかったが、小林一三は「素人だから玄人では気付かない商機が分かる」「便利な場所なら、暖簾がなくても客は集まる」と考え、事業を推し進めた。阪急百貨店は、洋食をメインとした大食堂が大人気となる。当時は、カレーライスとアイスクリームが人気であり、子どもたちが好んで注文した。

 阪急百貨店は1929年3月の開業であるが、同年9月に米国のニューヨークで世界恐慌が発生し、世界中が不況のどん底に叩き落とされたが、阪急百貨店は多くの客を集めることに成功する。

 百貨店事業が成功すると、1929年に神戸市民のシンボルであり避暑地でもあった六甲山に、宝塚ホテルの分館として六甲山ホテルを開業させ、ホテルなど派生事業も拡充した。世界恐慌を脱出した1932年には東京宝塚劇場、1937年の東宝映画を設立した。1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となるが、興業・娯楽事業にも力を入れた。1938年には新橋に第一ホテルを開設。これがさらに弾みを付ける契機となり、阪急東宝グループの規模は拡大の一途をたどった。

 阪急百貨店は、1947年に阪急電鉄から分離独立し、阪急電鉄の直営ではなくなった。ただ、それ以後も文化的なつながりを保っており、「阪急」というブランドの確立に貢献している。

(つづく)

(後)

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