2024年04月28日( 日 )

阪急阪神ホールディングスの礎を築いた小林一三(後)

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運輸評論家 堀内重人

 阪急阪神ホールディングスは、「都市交通」「不動産(ホテル事業も含む)」「エンタテインメント」「情報・通信」「旅行」「国際輸送」の6つの事業をコア事業と位置付けている。その中核会社は、完全子会社である(株)阪急電鉄、(株)阪神電鉄、(株)阪急阪神交通社ホールディングス、(株)阪急阪神ホテルズの4社だ。鉄道、文化、ホテルなど多岐にわたる事業の礎を築いたのが、阪急電鉄(設立時は、箕面有馬電気軌道)を創設した小林一三である。

阪急ブレーブスの創設と日本のプロ野球

阪急西宮北口駅前 イメージ    小林一三は、ユニークな発想から多くのビジネスモデルを生み出し、宝塚歌劇や阪急ブレーブス、そして東宝を設立するなど、多くの人たちを楽しませる事業を次々に成功させた。

 阪急ブレーブスの創設であるが、これには小林一三が野球へ深い関心を持っていたことが影響した。1934年に大日本東京野球倶楽部(現読売ジャイアンツ)が、翌1935年に大阪タイガース(現阪神タイガース)が、1936年に名古屋軍(現中日ドラゴンズ)が結成されるなど、企業による球団設立が相次いでいたことに、ビジネスチャンスを感じ取っていたのだ。

 小林一三は、1936年に「大阪阪急野球協会(後の阪急ブレーブス)」を設立。さらに、西宮北口の傍に翌1937年に西宮球場を建設して本拠地とした。西宮球場でプロ野球の試合が開催されると、阪急電鉄は観客輸送を担うことになるため、利用者は増加した。

 現在は阪急阪神ホールディングスに属する阪神電鉄も、甲子園球場の傍に甲子園駅を設け観客輸送を行う以外に、かつては甲子園球場の傍に甲子園阪神パークを設けていた。これにより、昼間は甲子園阪神パークで遊んで、夕方からは甲子園球場でナイターを観戦し、阪神電車で帰宅するというビジネスモデルを構築した。さらに阪神の梅田駅の地上部分に阪神百貨店を建設して、阪神タイガースのグッズなども販売することも行った。

 小林一三は文化事業に対する造詣が深かったこともあり、「私が死んでも宝塚とブレーブスだけは売るな」と言い残して、1957年に没している。

 だが翌1958年に、巨人軍に「長嶋茂雄」というスーパースターが入団。その年に「ホームラン王」と「打点王」に輝いた。1959年6月に行われた阪神タイガースとの天覧試合では、さよならホームランも打った。

 それまではセリーグとパリーグの人気は拮抗するか、野村克也を擁する南海や中西太を擁する西鉄もあるパリーグのほうが、幾分、人気が高かった。しかし、長嶋茂雄の天覧試合での活躍を契機に、巨人軍だけでなくセリーグ全体の人気を圧倒的に高めた。

 巨人が読売グループに所属し、さらにテレビや新聞という媒体を有していた。さらに長嶋茂雄という大スターの存在だけでなく、数年後にはのちの世界のホームラン王に輝く王貞治も登場し、巨人軍が9年連続日本一なる快挙を達成した。そうした事情や経緯があり、人気の面でパリーグを圧倒してしまった。

 阪急ブレーブスも、1975年から1978年まで4年連続でリーグ優勝。1975年から1977年まで3年連続で日本一になる黄金時代であり、大投手・山田久志以外に山口高志など投手陣だけでなく、盗塁王や2000本安打を達成した福本豊や長池徳二など、すばらしい選手にも恵まれたが、西宮球場で開催されるナイターは閑古鳥が鳴く状態であった。甲子園球場の阪神対巨人戦が満員で入場制限されても、西宮球場は5,000人程度しか観客が入らなかったのである。

 このように同じ西宮市に本拠地を構える阪急と阪神とでは人気は雲泥の差であり、阪急電鉄にとって球団経営は赤字となっていた。そこで1988年のオフにオリックスに球団を売却して、阪急ブレーブスが消滅。その後は西宮球場も取り壊されて住宅地になってしまった。

 もし小林一三があと10年長く生きていたならば、長嶋茂雄や王貞治という大スターが巨人に誕生して大活躍していたとしても、ファン密着の戦略を採用し、選手自らがファンのなかへ入って行く戦略を採用するなど、日本のプロ野球界に新たな新風を吹き込んで、パリーグも人気が維持されていた可能性がある。

 皮肉なことにオリックスへ売却された後は、本拠地を神戸に移し、球団名もオリックスブルーウェーブとなったため、「ブレ―ブス」という名称も消えたが、1993年にイチローが入団。攻走守の3拍子に優れた選手であり、かつスター性があったため、長嶋茂雄、王貞治に匹敵するような大人気を博すようになった。

 もしイチローの登場が5年ほど早ければ、阪急ブレーブスはイチロー人気で球団経営も盛り返し、今日も球団が継続していたとも考えられる。その後、阪急電鉄は2006年に阪神電鉄との経営統合により、阪神タイガースを傘下に収めたことで、球団経営に復帰している。

その他、小林一三の功績

 小林一三が考案したビジネスモデルは、私鉄の経営だけにとどまらず、各方面の事業者に大きな影響を与えた。そうした手腕が見込まれて、過当競争で設備が余剰気味となって、放漫経営に陥っていた東京電燈(現東京電力)の経営を立て直しにも取り組んだ。

 また阪急百貨店を銀座に進出させたほか、さらに渋沢栄一が創業した(株)田園都市(現東急電鉄)の経営に、日曜日だけであったが無報酬で関わった。そして、玉川や調布方面の宅地開発を鉄道事業と一緒に進めた。東急電鉄といえば、五島慶太のイメージが強いが、基盤をつくったのは小林一三である。

 昭和肥料(現レゾナック・ホールディングス、昭和電工から社名変更)の設立にも関与しただけでなく、最終的には1940年に第二次近衛内閣の商工大臣、戦後には戦災復興院総裁にも任命された。

 お客さまへの新たな生活と楽しみの提案を第一とする小林一三の精神は、現在も阪急阪神東宝グループの様々な会社によって受け継がれている。そして小林一三が創始した数々の社会事業・文化事業は、今も社会のなかで発展を続けている。

 これらの施策は、多くの私鉄に影響を与え、東急の五島慶太や、西武グループを率いた堤康次郎、九州電気軌道(現西日本鉄道)および岩田屋の中牟田喜兵衛も、小林一三の影響を強く受けた。

 小林一三は実業家としては超一流であるが、宝塚歌劇や東宝、阪急ブレーブスを創設するなど、文化面でも一流であった。多くの人に影響をもたらしたのには小林一三が若いころから文学青年であったことが、影響している。さらに旧制慶應義塾大学時代の寮の近くに、芝居小屋があったことから、芝居にも興味を持ち始めたことも、宝塚歌劇だけでなく、さまざまな会社経営における小林一三の独創的な発想に結び付いた。

 現在において、小林一三のような経営者やリーダーが日本に居たならば、「失われた30年」などは存在せず、安定した成長を維持するだけでなく、閉塞感に苛まれた社会にはならなかったと考える。

 小林一三は、現在の世に現れて欲しいリーダーである。

(了)

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