ヨーロッパを総括する(6)キリスト教

福岡大学名誉教授 大嶋仁

 ヨーロッパとは単なるEUではない。音楽、美術、哲学、科学、キリスト教、さらには啓蒙思想まで、多様な要素から成る「文明」としてのヨーロッパが、本来の姿である。しかし、そのヨーロッパはいま、アメリカ依存と自己喪失により、自立性と知性を失いつつある。ロシアとの断絶や、日本を含めた他文明との関係も複雑化するなか、真の復興には古典的精神と哲学への回帰が不可欠だ。ヨーロッパの未来を考えることは、同時に世界の未来を問うことでもある。

(6)キリスト教

キリスト教 イメージ    ヨーロッパは古代ローマ帝国の遺産を受け継いだ文明体である。これをEUと呼ぶ政治経済共同体と一緒にしてはならないことは、すでに述べた。EUのどこにも、文明の香りはしない。

 ヨーロッパを1つの文明として理解するには、ローマ帝国にさかのぼる必要がある。ローマ帝国はどういう帝国だったのか?

 AIなら「イタリア半島の都市国家ローマを起源とし、紀元前27年にアウグストゥスが皇帝の位について以来500年も続いた、西洋史上最大の帝国」と答えるだろうが、表面を撫でるだけのものだ。

 ローマ帝国の最盛期には、東は今のトルコ周辺、西はスペインとポルトガルのイベリア半島、南は現在のアフリカ北部、北はブリテン島すなわちイングランドにまでおよぶ広大な地域を支配した。整った統治形態と法制、都市計画と建築の高い技術、そして強力な武力が、ものを言ったのだ。

 「帝国」の定義だが、「皇帝」がいれば帝国になれるというわけではない。中心拠点がありながら、その勢力を文化の異なる諸地域に広げ、それらの地域全体に「文明の恩恵」をおよぼすことができることが「帝国」となる条件だ。

 東アジアなら唐の時代の中国がそうだった。インドから現在のスペインにかけて広がったイスラム文明圏も、「帝国」の一種と呼べるだろう。

 では、近代になって世界のあちこちを植民地にしたイギリスは「帝国」か? 答えは否だ。

 「大英帝国」と呼ばれるイギリスは、植民地搾取はしたが、文明化はしていない。文明化とはインフラを整備するだけでなく、そこに生きる人々の精神にも深い影響をおよぼす宗教あるいは哲学を注入することだからだ。イギリスはそれをしていない。

 現代世界は「アメリカ帝国」の支配下にある、という人がいる。しかし、アメリカが真の「帝国」であったならば、「インディアン」と呼ばれる先住民族を真っ先に「文明の民」にしたはずである。実際には彼らを絶滅の危機に追いつめ、「居留地」に閉じ込めてしまった。「帝国」のすることではない。

 ローマ帝国に話を戻すと、現在のヨーロッパのすべてがローマ帝国に支配されていたわけではない。北欧とドイツはその圏外にあった。東ヨーロッパも、ローマ帝国の圏外であった。では、そうした地域はヨーロッパではないのか?

 それらも「ヨーロッパ」である。それらの地域が、文化的にはローマ文明の恩恵を被っているからだ。つまり、間接的にではあるが、彼らもローマ化している。ヨーロッパとは、「ローマ化した地域」ということなのだ。

 「ローマ化」とは具体的にはどういうことか。

 1つには言語である。ヨーロッパの言語は基本的にインド=ヨーロッパ語族に含まれるのだが、ローマ帝国の言語であるラテン語が、それらに深く入り込んでいるのだ。ギリシャ語は自然科学とか哲学の用語になってはいても、国をまとめる法律と宗教の言語になってはいない。文章作法も、ヨーロッパの基本はラテン語の詩文だ。

 しかし、ローマ帝国がヨーロッパにもたらした最大のものは、ラテン語以上にキリスト教(より正確には、カトリック)である。この宗教はローマ帝国の息のかからない地域にまで入り込み、ヨーロッパ全域の文明化はこの宗教の浸透とともになされた、と言ってよい。

 つまり、ヨーロッパを1つに結ぶものはキリスト教、そう言って間違いない。

 キリスト教が生まれたのは現在のイスラエルで、ローマ帝国はその地を支配下に置いていた。そこからこの新宗教がローマにまで流れ込んだのだ。

 もともと多神教であったローマ帝国は、初めはこの宗教を迫害した。しかし、迫害すればするほど勢いを増すのを見て、ついにこれを認め、さらには国教とまでしたのである。この大きな精神文化の変化。これがのちのヨーロッパ文明の基礎となった。

 ローマ帝国がキリスト教化されたことで、その支配下の全地域がキリスト教化された。宗教は人々の日常にまでおよぶので、支配者はこれを利用して、より良い統治を実現したことは事実だ。しかし、たとえそうであっても、それが人々の魂の救済につながらなかったならば、キリスト教は早くに滅びただろう。キリスト教がヨーロッパの精神的支柱となったからこそ、そこに輝かしい精神文化が生まれたのである。

 科学を中心とする近代文明がヨーロッパに生まれ、それが「伝統となっていたキリスト教精神を破壊したのではないか?」という人もいる。しかし、その科学にも、本来はキリスト教精神が食い込んでいたのだ。

 18世紀に生まれた啓蒙思想は「教会ばなれ」を目指したが、だからといって、反キリスト教的だったとはいえない。ヨーロッパの近代には、目に見えないかたちでキリスト教が潜んでいる。だが、当のヨーロッパ人が、それを見落としている。

 繰り返すが、ヨーロッパ文明を理解するにはローマ帝国の遺産、とりわけキリスト教を知る必要がある。新しいローマ法王が選ばれたいま、この宗教のもつ意味をもう一度考えてみる必要があろう。

(つづく)

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