なぜ、スマホのバッテリーはすぐ交換できないのか?短い保証期間、高額な修理費用、交換のできない部品……私たちは昨今の暮らしのなかで、“修理(リペア)すること”から遠ざけられているのだろうか。
ウルグアイ元大統領

(筆者作成イメージ)
ウルグアイ第40代大統領ホセ・ムヒカ氏(1935~2025)は、国民から親しみを込めて「ぺぺ」と呼ばれた。世界で一番貧しい大統領といわれた男は、「発展は幸せの邪魔をしてはならない」と言った。発展は、人類の幸せ、愛、子育て、友達をもつこと、そして必要最低限のもので満足するためにあるべきものだと。「私は質素だが、貧しくはない。多くをもたず、必要なものだけで慎ましく生きている」と彼は応えている。友人から譲り受けた30万円ほどの愛車フォルクスワーゲン・タイプ1で移動し、大統領公邸ではなく郊外の農場に住んだ。毎月1,000ドルほどで生活し、収入の9割を貧しい人たちへ寄付し続けた(後に農業学校を設立し、子どもたちに農業を教える取り組みをしている)。

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この世はビジネスや経済ばかりではない。愛情を育むためのゆとりをもつべきだ。愛する人や友人、子どもたちのために。急いで生きる必要はない、欲におぼれてはいけないと、彼は警鐘を鳴らし続けた。我々は求めすぎているのだと。貧しいとは、必要としすぎる者のことをいう。なぜなら、必要としすぎる者は、満足することはないから。「貧しい人」とは少ししか持っていない人ではなく、いくらあっても満足しない人のこと。我々は程度を知らなければならないのだと。
私たちは幸せか?
現代人の不安は、ずいぶん贅沢だといわれる。結局のところ、満足の度合いを上げれば不安は常につきまとうことになる。「生きるか死ぬかのあのころに比べて、今はどれほど恵まれていることか…」──とある人はいうだろう。社会では、物質は消費を促し続ける設計になっていて、我々はもっと働き、もっと売るために、「使い捨て文明」を支える循環のなかにいる。人類は消費社会をコントロールできていない。人生をすり減らしているのは、消費が社会の駆動力になっているからだ。水問題や環境の危機がことの本質ではないことに、我々は気づかなくてはならない。見直すべきは我々が築いてきた文明の進み方であり、人類の精神にある。

“私たちは幸せか?”…2012年ブラジルの国際会議で、ムヒカ大統領は経済拡大を目指すことの問題点を指摘し、こうスピーチを続けた。「私たちは仲間なのでしょうか?今の発展を続けることが本当に豊かなのでしょうか?もしドイツ人がひと家族ごとにもっているほどの車を、インド人もまた持つとしたら、この地球はどうなってしまうのか。私たちが呼吸できる酸素は残されるのでしょうか?」と(10分程度の動画はYouTubeで見ることができる)。
国民はどこへ向かう?

我々が今、挑戦しようとしている貧困、環境問題といった巨大な困難は、政治の問題だ。サミュエル・スマイルズの「自助論」によれば、“政治”とは国民の考えや行動の反映に過ぎない。どんなに高い理想を掲げても、国民がそれについていけなければ、政治は国民のレベルにまで引き下げられる。逆に国民が雄弁であれば、いくらひどい政治でもいつしか国民のレベルにまで引き上げられるとある。つまり、国民全体の質がその国の統治の質を決めるのだ。立派な国民がいれば政治も立派なものになり、国民が無知と腐敗から抜け出せなければ、劣悪な政治が幅を利かす。国家の価値や力は国の制度ではなく、国民の質によって決まってくるのだ。
法律を変え、制度を手直ししたからといって、高い愛国心や博愛精神が養えるわけでない。むしろ国民が自発的に自分自身を高めていけるように援助し、励ましていかなくてはならない。我々の社会は途切れることなく引き継がれ、優れた産業や科学、芸術が生み出されてきた。現代の人間は、祖先の技術や勤勉によってもたらされた豊かな財産の後継者。そしてこの財産を損なうことなく、各々の責任において守り育て、次代の人々に手渡していかねばならないというのに。
足るを知る。

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世界のほとんどは「西洋文明化」してしまった。世界中が西洋文明を取り入れて、そこに覆われるようになってしまった。英米人自身それに気づいて、「WEIRD」なんて言葉を使っている<Western(西洋の)、Educated(教育を受けた)、Industrialized(工業化された)、Rich(金持ちの)、Democratic(民主主義)>。
ムヒカ大統領は公務でもネクタイを締めなかった。ネクタイを締めることは政治家の口を締めることであり、ネクタイは現代文明の奴隷の道具と考えていたようだ。消費社会というものをつくってしまったがゆえに、経済は常に伸びなければならない。それに失敗したら惨事となる。私たちは、必要のないものを山のように捨てては買っている。広告を通じてあなたに足りないものを刺激し、SNSでは1人ひとりが広告塔になって、私たちに足りないものを伝えてくる。資本主義は常に、私たちの欲望や欲求に働きかけてくるのだ。どこまでいってもそれが満たされることはない。「もっともっと」と欲求を満たそうとする行為は、ある意味では破滅的だ。欲求のいうことを聞いていたら、どれだけあっても足りない。欲求が先を歩き、後を追う人生にしてはいけない。本能の側ではそれを欲しがるが、我々は理性の側でそれを抑制するブレーキをもたなければならない。
日本にはかつて「足るを知る」を美徳とした文化があったが、ほとんどが西洋文化に置き換わってしまい、その精神を失いつつある。服装でさえ和装をはぎ取られ、ネクタイを締めるスタイルへ。歴史の浅いニュージーランドでは、「この国はもともと何もなかったんだから、そんなに多くのものをもたなくてもいい」というマインドをもっている人が多いという。ニュージーランド人は「足るを知る」「身の丈を知る」をもっている。そして本来は日本人こそ、世界でずば抜けて、そうしたサスティナブルなマインドをもっていた。戦後の大量生産大量消費で忘れられてしまっているだけで、ゼロウェイストやサスティナビリティ、オーガニックなど、今必要とされるキーワードは、江戸時代から実践していたのだから。欲求が主導して人生を進めるのではなく、我々は理性を主導として生きる素質がある。「足るを知る」とは理性を働かせ、自分本位で生きていくスキルとして育てられる。
第2次世界大戦後の高度成長で、日本の企業は規格大量生産の側に舵を切ったが、そろそろ曲がり角にきている。ポスト工業社会を目指して、自分たちの足元にある日本列島の地勢的な特徴や伝統を捉え、過去を振り返るというかたちではなく、未来の資源としてどう使っていくかを考える、日本企業はどうやったら「MADE IN JAPAN」が、もっと長期にわたって、安定的に世界から求められる価値になるのか、そのリブランディングを始めなければならない。
「修理」か「買い替え」か
ところで、スマートフォンを落として破損してしまったとしよう。あなたは画面の割れたスマートフォンを我慢して使い続けるかもしれない。我慢しないならば、選択肢は2つに1つ。修理するか、買い替えるか。しかし、そのときに感じずにいられないのは、修理という選択肢が乏しいこと。修理を受け入れてくれるインフラがないこと、修理にコストがかかること、何より修理を積極的に採用するマインドが乏しい。私たちは環境的に、修理することから遠ざけられているのではないだろうか。
欧米では、1950年代にテレビや冷蔵庫といった家電が大衆に普及。当時の製品は現在と比較してシンプルな構造で、修理マニュアルも公開されていた。またDIY文化も盛んで、工具と知識があれば消費者が自分で修理でき、いわゆる「修理屋さん」と呼ばれる地元の修理業者も街に多く存在していた。しかし、ITバブルが起こった1990年代~2000年代にかけて、マイクロチップやソフトウェア制御を使う電子機器の高度化が進み、修理には専用ツールや診断ソフトが必要になっていく。同時に、グローバル化を受けて企業間の競争が激化。修理に必要な情報をメーカーが「知的財産」として囲い込み、消費者が製品を“勝手にいじる”ことを制限する。結果、収益を安定させた。これにともない、多くのメーカーがサービスマニュアルの非公開化や純正パーツの販売制限を開始。修理は、メーカーが指定した正規認定業者のみが行えるようになっていったのだ。

私たちは手元のデバイスを理解できず、コントロールもできない。外部の力に権限を委ねるしか選択肢がなくなっている。私たちとテクノロジーとの関係は受動的で、ますます依存的なものになっている。この傾向は、生活上ではもちろん、アイデンティティーまでもが電子機器と密接な関係にあり、以前なら記憶して頭のなかで行ってきたプロセスを、今はスマートフォンに委ねている。友だちの電話番号、親戚の誕生日、約束の日にちをスマートフォンが覚えていてくれるから、私たちは覚える必要がない。かつては頭のなかにあった道順もナビゲートしてくれる。壊れたら慌てて買い替えるのも無理はない。これはスマホに限らずすべての製品が高度・精密化しているため、我々は自分がもっているものを制御できなくなってきている。故障や問題は目の前にあるのに、遠くから解決にアクセスできる人を呼んでこなければ、それに触ることもできない。人の力を借りなければ事態を前に進めることができない現象は、どこか自分事ではないような感触。これは暮らしのなかで、その程度や範囲がどんどん広がってきているように感じる。
(つづく)
<プロフィール>
松岡秀樹(まつおか・ひでき)
インテリアデザイナー/ディレクター
1978年、山口県生まれ。大学の建築学科を卒業後、店舗設計・商品開発・ブランディングを通して商業デザインを学ぶ。大手内装設計施工会社で全国の商業施設の店舗デザインを手がけ、現在は住空間デザインを中心に福岡市で活動中。メインテーマは「教育」「デザイン」「ビジネス」。21年12月には丹青社が主催する「次世代アイデアコンテスト2021」で最優秀賞を受賞した。

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