「健口から健康へ」第8回は、脳の活性化と咀嚼の関係に注目します。便利になった現代では、スマートフォンや自動化技術により五感を使う機会が減り、記憶力の低下や物忘れが問題となっています。しかし毎日の食事で「よく噛む」という身近な行為が、実は脳を活性化させる最も効果的な方法の1つなのです。
便利さが奪う五感の刺激
生活が楽になるほど、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚という五感の出番は減りがちです。地図アプリがあれば周囲を観察する必要もなく、自動化された環境では感覚器官を積極的に使う機会が著しく減少します。電車内でも多くの人がスマートフォンに集中し、車窓の景色や季節の移り変わりを感じることも少なくなりました。
五感からの情報入力が細ると、記憶を司る海馬への刺激も低下し、脳の神経細胞は「使われない回路」から衰えやすくなります。神経細胞には情報の入力を受けないと死滅する性質があり、感覚刺激の減少が記憶力低下や物忘れの一因となっています。大切なのは「意識して五感を使う時間を取り戻す」こと。通勤の一部を歩いて街の音や季節の香りを感じる、買い物では旬の食材の色や香りを確かめるなど、日常に小さな刺激を戻しましょう。
咀嚼が脳を目覚めさせる
よく噛むと、歯を支える歯根膜が「歯ごたえ」という触覚情報を送り、硬さや弾力の違いを細やかに脳へ伝えます。舌の味蕾が甘味・酸味・塩味・苦味・うま味を捉え、さらに嗅覚が香りを感知します。においを司る嗅神経は12対ある脳神経のなかで最も脳に近く、記憶や感情に関わる大脳辺縁系に直結しているため、風味として統合された豊かな刺激が広い脳領域を活性化するのです。
実践のコツは、一口ごとに箸を置き、30回を目安に噛むこと。根菜、きのこ、海藻、豆・ナッツなど噛みごたえのある食材を一品添え、ひと口目は鼻で香りを確かめてから味わいましょう。ひと口量をやや小さめにすると回数が稼ぎやすく、満腹中枢も働きやすくなります。舌が正しい位置(上あごに軽く触れる)でしなやかに動くと、食べ物を歯列へ上手に運べて自然に噛む回数が増えます。
今日から始める実践法
脳を元気に保つ基本は「噛む・歩く・眠る」の好循環です。よく噛むと唾液が増え、消化が整って睡眠の質が上がり、翌日の集中力や活動量(歩く意欲)も高まります。歩行は視覚・前庭感覚・固有感覚を同時に使う全身運動で、脳の血流を促します。まずはエスカレーターの一部を階段に、移動時間を5〜10分上乗せしてみましょう。歩くときは目線をやや遠く、腕を後ろへ引く意識でリズムを作ると効果的です。
就寝前は「舌ストレッチ」を習慣に。舌先を軽く前に出して鼻呼吸5回、口を閉じたまま舌で上あごをゆっくり一周(左右各10回)、上下の前歯の裏から上あごの奥を順にタッチ(10回)。2分の習慣で気道が保たれ、いびきや口呼吸の軽減につながり、深い眠りを後押しします。日中も「唇は閉じる・歯は触れない・舌は上あご」を合言葉に鼻呼吸をキープしましょう。顎や歯に痛みがあれば無理をせず、歯科で相談してください。
便利さを上手に使いながらも、頼りすぎない。自分の目と耳、鼻と舌、そして歯と舌を積極的に使う時間を日々のなかに組み込みましょう。毎日の食卓は、海馬をはじめ脳全体を鍛える最高のトレーニング場です。「健口」は「健康」への入口。よく噛み、よく歩き、よく眠る─その素朴でありながら確かな基本が、年齢に関わらず脳をいきいき保つ力になります。
歯科医師 大村豊(おおむら・ゆたか)
1964年3月23日福岡県柳川市生まれ。福岡歯科大学卒業後、大学院で舌の発生学を研究。2002年10月に福岡市百道浜で大村歯科クリニックを開業し、予防歯学を重視した診療を展開。オーラルフレイルに早期から着目し、独自の口腔機能向上プログラムを通じて患者の生活の質向上を図る。現在も「口の健康が全身を支える」という信念のもと、研究と臨床の両面から口腔ケアの重要性を訴え続けている。