世界を魅了する「THE 日本エンターテイメント」DRUM TAOが切り開く日本文化の未来像

(株)タオ・エンターテイメント
代表取締役社長 藤高郁夫 氏

 和太鼓を中心に数々の和楽器を用いた圧倒的なパフォーマンスを繰り広げ、伝統と革新が融合した独自の舞台芸術を創造する「DRUM TAO」。2026年4月に京都市内で常設劇場「DRUM TAO THEATER KYOTO」をオープンする。ニューヨークのブロードウェイ進出も果たした彼らが、なぜ今、日本の古都で新たな挑戦を始めるのか。(株)タオ・エンターテイメント代表取締役社長・藤高郁夫氏に話をうかがった。
(聞き手:(株)データ・マックス 代表取締役社長 緒方克美)

国内屈指の「和太鼓エンタメ」DRUM TAO

(株)タオ・エンターテイメント 代表取締役社長 藤高郁夫 氏
(株)タオ・エンターテイメント
代表取締役社長 藤高郁夫 氏

    ──DRUM TAOについて改めて教えてください。

 藤高郁夫(以下、藤高) DRUM TAOは、和太鼓を中心としたパフォーマンス集団です。日本の伝統的な和楽器の演奏に、日本を代表するデザイナーであるコシノジュンコ氏が手がける衣装、殺陣などのパフォーマンスを取り入れ、「とにかくカッコいい」エンターテイメントをお届けしています。

 福岡市博多区に営業部門の拠点である福岡オフィスを開設していますが、アーティストのメンバーは大分県竹田市を生活拠点としつつ稽古を行っています。ここが私たちの実質的な拠点ですね。東京にも事務所があり、今後は京都にも事務所を開設する予定です。私たちDRUM TAOの特徴はやはり公演回数の多さではないでしょうか。

 DRUM TAOにはアーティストのメンバーが現在40名在籍していますが、それをツアー班や常設会場での公演班など複数班に分けて全国各地で公演を行っています。2019年にはこのうちの1班だけで公演回数日本一(エキサイト調べ)になりました。また、コロナ禍前には、年間50万枚のチケットを販売しており、日本トップクラスの集客力を誇っていると自負しております。全国のプロモーターの方々と良い関係を構築できたおかげで、全国各地からオファーをいただいております。

 ──世界でも活躍されていますね。

 藤高 私たちDRUM TAOの目標はブロードウェイへの進出でしたが、世界への初挑戦はエンターテイメントの本場であるアメリカはラスベガスでの公演だと決めていました。しかし、相応の実績がなければ、世界中から一流のエンターテイメントが集うあの場へ立つことはできません。そこで、まずは地元の九州で「100万人の観客へ認めてもらうこと」を目指し、メンバーらとともに世界中のショーを観ながらパフォーマンスを磨いていきました。ラスベガスへもメンバーらと「勉強がてら」毎年遊びに行きましたね。「俺たちが行くところはここだぞ」と。

 当初は多くの和太鼓グループと同様、法被や褌などを身に着けて演奏していましたが、世界中のさまざまなショーを参考に、まったく新しい和太鼓パフォーマンスを模索し、1997年に初のオリジナル作品を完成させました。これを機に、私たちは「世界で通用するエンターテイメント」をテーマとして掲げ、「とにかくカッコいい」パフォーマンスを作り続けていくことになりました。和太鼓の指導者たちから「こんなものは和太鼓ではない」というダメ出しを受けたこともありましたが、新しい芸術文化を創造するという使命感に燃えていましたね。

 その後本格的に九州100万人動員へ向けて活動を続けていきました。九州で行ったことのない場所はないんじゃないかな?というくらいです。そうした努力の結果、九州各地で私たちを支援してくださる方々にも数多く出会うことができました。パフォーマンスに手応えを実感するとともに、早く世界で披露したいという念に駆られるようになり、2004年に世界最大の芸術祭「エディンバラ・フェスティバル・フリンジ」へ初参加し、世界デビューをすることになりました。その後ラスベガスでの公演も行い、16年にはニューヨーク最王手のプロデューサーと協力して、長年の夢であったブロードウェイへの進出を叶えることができました。現在では、世界31カ国、500都市、観客動員数1,000万人を突破しました。

 ──DRUM TAOは当初愛知県で結成されたと聞きました。現在は九州、とくに大分県竹田市を拠点としていますが、どのような経緯があったのでしょうか。

 藤高 DRUM TAOはもともと、愛知県小牧市で結成しました。当時は小牧空港のそばにある支援者の方が所有していた倉庫で稽古をしていました。しかし、バブル期に周辺に住宅が建ち始め、「うるさい」という苦情が寄せられるようになりました。「太鼓に毛布をかぶせてやれませんか」と警察から防音対策を求められましたが、プロとしての矜持がそれを許すことがどうしてもできませんでした。

 そのため、人里離れた場所に行くしかないと考え、全国の知人に声をかけました。そのなかには、元NHKアナウンサーで熊本県立劇場の館長だった鈴木健二氏もおり、「音が気にならないところ」として阿蘇はどうかと助言をいただきました。

 私自身、熊本県出身でしたから、九州という地に強い関心をもつことになりました。そのころ、隣接する大分県久住町(当時)の町長から声がかかったのです。大分県では「一村一品運動」に加え「一村一文化運動」を進めており、「あなたたちが久住町の文化にならないか」というありがたいお言葉をいただきました。実際に現地の様子を見てみると、非常に良い環境でした。和太鼓の音は数km先まで聞こえるため、人里離れた場所での共同生活が必須であり、久住町を選んだのは正解だったと考えています。

 現在では、本社であり、メンバーたちの生活拠点であるTAOの里のほか、阿蘇くじゅう国立公園内に野外劇場TAOの丘を20年に新設しました。ラスベガスやブロードウェイでの公演という夢が叶った後、メンバーから地元でゆっくりしたいという声が出たためでもありますが、観光客を呼び込む地域貢献になると考えています。こうした取り組みが評価され、観光庁長官表彰や大分県文化功労賞、竹田市文化創造賞などを受賞しました。「久住町の文化」になれていれば幸いですね。

コロナ禍を乗り越えた
「熱意」と「営業力」

    ──藤高社長はもともと太鼓演奏者ではなく、営業マネージャーとして経営を担われたとうかがっています。太鼓とは縁がなかった社長が、この道に進んだ経緯をお聞かせください。

 藤高 先ほど申し上げた通り、私は熊本県出身で、もともと父親が建設業を営んでいたため、工業系の大学の建築学科で勉強していました。卒業後は大手の建設業者に入って勉強し、家業を継ぐ予定でしたが、大学時代に父が倒れ会社が倒産し、跡取りの予定はなくなりました。そこで、名古屋に本社がある英会話教材の会社に入社しました。その会社の上司が、突然「俺はやっぱりこの仕事やめて太鼓叩くわ」と言って退職されたのです。

 私自身、人生に「太鼓」という文字がまったくなかったので、その意図が理解できず驚きましたね。その後、私は熊本に戻り流通業のサラリーマンをしていましたが、6~7年後にその元上司から「ラスベガスの公演をやりたいからちょっと手伝ってくれ」と誘われました。

 当時、彼らは熱海のレストランシアターで和太鼓とイギリス人ダンサーのパフォーマンスを組み合わせたショーを公演していました。DRUM TAOの前身です。その公演に感動した私はその仕事を引き受けました。当時の年齢は30代半ばで、家を購入して1年未満という時でしたから、生活の保障を条件に、というところではありましたが。これが私と和太鼓との出会いです。

 ──波乱のスタートだったとうかがっています。

 藤高 入社からわずか2カ月後に倒産を経験しました。おそらく、元上司は私を呼んで再起をかけようとしたのだと思いますが、公演準備には時間がかかります。その間に資金繰りがつかずに倒産してしまいました。ラスベガス公演のために集められていた若者たちが路頭に迷う状況となり、私は「いつか必ずベガスに連れて行ってあげるから、一度熊本に住んで鍛錬して、私の営業を待って再起しよう」と話しました。これが実は「世界への初挑戦はラスベガスで」と決心していた理由でもあります。

 当時在籍していた半分の人間が残り、それが現在の中心メンバーとなっています。彼らは世界で太鼓を叩いて喝采を受けたいという憧れ、夢をもっていました。この憧れ、夢が再起の原動力となりました。私は営業マネージャーとして、また経営者として宣伝や営業を担当してきました。たしかに波乱のスタートでしたが、私自身はそれほど苦になりませんでした。初期のチケットは3,000円という安価な設定でしたが、「誰に売るか」を主眼において考える戦略的な営業活動が軌道に乗る要因となったと考えています。ラスベガス公演実現には10年以上の年月がかかりましたが、約束を果たすことができたときはやはり感動しました。

 ──メンバーの熱意とそれを支えるための営業力がそろってこそのDRUM TAOということでしょうか。こうした経験は後の経営において役立ちましたか。

 藤高 エンタメ業界全体が苦しんだコロナ禍では、ドイツやアメリカなど海外では、文化的なものは人間に必要だとされ、アーティスト個人への補助金や税優遇措置がすぐに提供されました。一方、日本の場合は、雇用調整助成金というかたちで支援が行われましたが、エンタメ業界というのは労働規約が決めにくいことから、想像以上に制度との嚙み合わせが悪く、難しい状況に陥りました。

 実は、DRUM TAOのメンバーは皆、タオ・エンターテイメントの正社員としてきちんと雇用契約を結んでいますが、私は補助金に頼らない道を選びました。皆さまのおかげで資金を蓄えることができていたためでもありますが、経営者として、メンバーをきちんと養っていきたいという想いが強くありました。その後、公演をしたいというメンバーたちの熱意と、名古屋のプロモーターの声に背中を押され、マスクやガードを徹底したうえで、愛知県芸術劇場で公演を再開しました。

 これまで4回公演で1万枚のチケットが売れていたのが1,200〜1,300枚ほどに落ち込みましたが、これを見た人たちが「TAOは動き始めた」と全国に広めてくれました。思い切って全国の劇場にオファーを出すと、270件もの返事をいただき、その結果、コロナ禍にもかかわらず黒字を出すことができました。

世界への新たな挑戦
「DRUM TAO THEATER KYOTO」

 ──2026年4月、京都市に常設劇場「DRUM TAO THEATER KYOTO」が開設されます。開設に至った経緯を教えてください。

 藤高 私たちは長年、ブロードウェイへの進出を狙っており、16年に公演を実現しました。その際、私たちの舞台を観たJTBから「東京のインバウンド向けの常設劇場を是非やりませんか」と声をかけてくださいました。

 そこで、東京での常設公演を目指すことになり、17年から東京都千代田区にあるオルタナティブシアターにて常設作品「万華響-MANGEKYO-」を年間500公演実施しました。残念ながらコロナで中止となりましたが、その実績が今回の京都での計画につながりました。京都駅直結の複合商業施設である京都アバンティにある劇場を取得した野村不動産がエンタメ事業に進出したいと考えた際、当時の常設作品担当者へ私たちDRUM TAOを紹介してくれないかと相談があったそうです。立地や劇場を見て、「これは成功するかもしれない」と感じましたね。

 ──京都市に常設劇場を開設する狙いについて、改めて教えてください。

 藤高 17年ごろ、観光庁などが外国人観光客を増やす目標を掲げるなかで、「日本の文化に触れる外国人がいない」「夜間、外国人が日本を楽しむ場所がない」という課題が浮上しました。「DRUM TAO THEATER KYOTO」は京都という多様な文化が交わる街で、言語や国籍を越えて人々が心でつながる場所を目指しています。私たちのパフォーマンスはもちろんのこと、専用劇場だからこそ実現できる、日本文化の伝統と革新を体感できる場を提供することで、外国人観光客の方々に「日本ってカッコいい」と思ってもらいたいですね。

2026年春、京都で開業予定の専用劇場のイメージ
2026年春、京都で開業予定の専用劇場のイメージ

 ──常設公演の実現が、DRUM TAOにもたらす変化は何でしょうか。

 藤高 常設公演はアーティストにとって名誉なことですが、日本中・世界中を飛び回っている私たちにとって、一箇所にとどまるのは意外と大変なことです。しかし、今回の常設公演では、相応の制作費をかけられるため、驚くような舞台を創り出すことができると感じています。これは、かつて劇団四季が市民劇団的なものから全国的な劇団へとステップアップしたように、DRUM TAOがさらなる進化へ至るためのステップになると確信しています。

 私たちは今後、メンバーをツアー班と京都の常設班、そして大分にある野外劇場での公演を行う班を含めた3班体制で動かさなければなりません。先ほど説明したように、メンバーは全員当社の社員です。契約締結に際して、完全週休2日、3カ月に1度、1週間の休み、1公演40分で1日に最大2公演、制約時間は必ず8時間になるという、労働環境を重視する条件を提示しました。メンバーをしっかり守りつつ、あたえられた絶好の機会を活用して、さらなるエンターテイメントを追求していきます。

デジタルな時代だからこそ
「人間力」が試される

 ──DRUM TAOは23年に結成30周年を迎えました。これまでさまざまな夢や目標を実現できた要因は何だと思われますか。

    藤高 成功の要因は、結局「夢」をもつことにあると思っています。皆で「こんなことやりたい」と、同じ方向に向かって突っ走ったときに、すごいパワーが生まれるのです。結成間もないころ、私たちは北島三郎さんの舞台に1年4カ月間ほど出演しましたが、大変支えていただきました。そうした経緯で、北島三郎さんの舞台設計をされていた方に「面白い舞台を作ってください」とお願いしましたが、トラックがないくせに物だけ先に作ってしまうという、向こう見ずなことをした経験もあります。すぐにトラックを買いに行ったのですが、そうした経験含めて、夢中になって面白がってやっていたものです。夢中になっていると、自然と人が集まってきます。集まった人の縁というのは大きな財産です。

 また、「家族をファンにすること」も大切だと考えています。私の家族や親戚も皆、大のDRUM TAOファンです。ファンだからこそ、みんなが集まってくれるというつながりが生まれています。AI・デジタルな時代だからこそ、私たち人間の「人間力」が試される時代であり、エンターテイメントの重要性が増しているのだと思います。

【若松大生】


<PROFILE>
藤高郁夫
(ふじたか・いくお)
1959年熊本県生まれ。大学卒業後、外資系商社や大手流通業を経て、93年にDRUM TAOを結成。95年に阿蘇くじゅう国立公園を有する大分県竹田市久住町に移転。2000年九州を中心に100万枚のチケットセールスを記録する。04年世界最大の芸術祭「エディンバラ・フェスティバル・フリンジ」に初参加。25日間の連日公演をすべて完売させ、衝撃の世界デビューを飾る。以後、ワールドツアーを展開し、23年に結成30周年を迎えた。


<What’s DRUM TAO>
伝統楽器である和太鼓を中心に圧倒的なパフォーマンスで 表現する「THE日本エンターテイメント」で世界観客動員数は1,000万人を超える。2016年、ニューヨーク・オフブロードウェイでは全公演SOLD OUT。17年から東京常設劇場「万華響」を年500公演行い、 20年には阿蘇くじゅう国立公園内に絶景の野外常設劇場「TAOの丘」をオープン。22年よりNEWプロジェクト「CLUB TAO」が始動し、東京・大阪でのロングラン公演やメジャークラブに出演。現在、世界ツアー班・全国ツアー班・常設野外劇場班の3チームで年600回の公演を行う。総務大臣表彰、観光庁長官表彰、大分県文化功労賞、竹田市文化創造賞などを受賞。

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