『週刊現代』元編集長 元木昌彦 氏
昔々、私が週刊誌をやっている時代は、たかが週刊誌だった。読み捨てられ電車の棚に置き去りにされる。間違っても家に持ち帰ることなどない“物騒”な、だが、しばし憂き世を忘れさせてくれるのが週刊誌だった。
一冊の新書が届いた。
『パブリック・エネミー』(小倉健一著=星海社刊)がそれである。星海社は講談社の関連会社。
小倉は経済誌『プレジデント』の元編集長。旧知の人間だが、だいぶ会っていない。
サブタイトルに「週刊誌(メディアとルビがふってある)がカネもうけして何が悪い!」とある。
腰巻きに「愛すべき敵(編集者とルビ)たち」として、角川春樹、島地勝彦、花田紀凱、そして私の名前が載っている。
だいぶ前、小倉がプレジデントの編集長になるとき、少しばかり編集長心得のようなことを話したことはあったが、それ以降、何度もバカ話はしたが、まともな話などしたことはない。
もちろん、こんな本を書くなどという話は聞いてもいない。いったい何事か?
小倉というのは京都大学経済学部を出て、プレジデント社に入る前に国会議員秘書をやっていたそうで、政治家との人脈はかなりあるようだった。
たしか小泉純一郎が首相のとき、首席秘書官として名を売った飯島勲の連載を始めたのが、小倉編集長の時だったと記憶している。
若くして編集長になり、部数も伸ばしたのに、ある日突然、社を辞めてフリーになってしまった。
経緯はよくわからないが、若い書き手として活躍しているのは側聞していた。
小倉も現在のプレジデント編集長の星野貴彦も、私が30年間続けていたゴルフコンペ「三土会」に出てくれていた。
星野は、彼が慶応大学の学生の頃から知っている。彼も優秀な男で、大学を出てNHKに入局した。
だが、何年かして、「やはり編集者をやりたい」とNHKを辞め、プレジデント社へ途中入社した。
今は、編集長とフリージャーナリストと立場は違うが、ともに“デキる”男である。
その小倉が何を書いたのか? どうせろくなことは書くまい。そう思ってパラパラ読んでみた。
小倉健一が描いた「怪物・元木昌彦」
小見出しに「『売れること』を正義とした怪物・元木昌彦」とある。怪物か俺は?
書き出しはこうである。
「かつての日本の出版社には、倫理や良識などという生ぬるいものをドブに捨て、ただひたすらに『売れること』のみを正義とした怪物がいた。
講談社で『週刊現代』と『FRIDAY』の編集長を歴任し、両誌をどん底からV字回復させ、100万部雑誌へと押し上げた伝説の男、元木昌彦さんである」
まあ、部数が落ちていた両誌を再生させたのは確かだからいいが、売ることのみを正義としたといわれると、なあ……。続けて、
「彼がやったことは、編集というよりは『錬金術』に近かった。それも、泥と汚物のなかから黄金を取り出すような、極めて悪趣味で、しかし誰にも真似できない種類の魔術だ。
誤解を恐れずにいえば、ぼくはこの男を深く愛し、そして畏怖している」
おいおい俺はいかさま師かよ。
まあ、編集というのは無から有を生み出すことだから、似ていなくはないがね。
読者の欲望に向き合った時代
小倉がいうには、「彼が教えてくれた最大の教訓は、『モラルを捨てろ』ということではない。『読者の欲望に対して、どこまでも誠実であれ』ということだ。たとえそれが、世間から後ろ指を指されるような、ドロドロとした欲望であったとしても」
いい方は違うが、入社以来先輩たちから、編集者は読者と同じ目線でモノを見て考えろ、と教えられてきた。
私がついていたと思っているのは、私が編集長をやっている時代は、私が面白いと思うことを読者も面白いと感じてくれたことだった。
これほど編集者冥利に尽きることはない。私が見た映画、読んだ本、旅行や女性を連れて行った流行りのレストランのことなど、すべてが企画に結び付き、部数に反映されたのだ。
小倉はこの後、私がつくったヘア・ヌードや、袋とじの「2度と見たくないヌード」、東京オリンピックで、KADOKAWAがスポンサーになれて講談社が排除されたのかについての考察が続く。興味のある方は買って読んでください。
この後に、文藝春秋が発行する週刊文春の名編集長だった花田の話も出てくる。
花田の時代も終わり、週刊誌は沈んだ
この本がどういう読まれ方をするのかわからないが、私は80を超え、花田は83のはずである。
2人が現代や文春の編集長をやっていたのは四半世紀以上前の話である。
たしかに、われわれが編集長を辞めて以来、出版界は右肩下がりで、歯止めはかからず、週刊現代は隔週刊になり、週刊ポストは月3回刊。もはや週刊誌ではない。
週刊新潮は休刊の噂が絶えず、週刊文春も、新谷学という名編集長が出てきてスクープにカネと人員を注ぎ込み、数々の大ネタを放ち「文春砲」とまでいわれたが、残念ながら部数減に歯止めはかからなかった。
文藝春秋社はここ数年、赤字が続き、早期退職者を募る事態になっている。
もはや、どんな編集長が出てきても“儲かる”雑誌にできることは期待できない。
われわれのときのような編集者と読者の幸福な関係は、もはや夢物語になってしまった。
戦争の悲惨さが伝わらない理由
話はガラッと変わる。この原稿を書いている時点で、アメリカとイスラエルが始めたイランとの「戦争」が収束するかどうか不透明な状況である。
この国のメディアは連日、トランプ大統領の「X」に投稿した内容や、外国通信社の報道を紹介して、この戦争を報じている。
最大の関心は、ホルムズ海峡の封鎖が解除され、日本向けの石油タンカーが通行できるようになるのはいつかということだが、アメリカとイラン側の主張の「食い違い」がうかがい知れないため、日々一喜一憂するだけである。
2023年10月、イスラエルがガザ地区を爆撃して、多くの民間人を殺戮した時も感じたことだが、この国で新聞を読みテレビを見ていても、どうしても戦争の悲惨さ、深刻さが伝わってこない。
なぜなのか? その理由を考えてみた。そして出た結論は、ほとんどの情報がアメリカ経由、欧州経由だからだということだった。
すべての情報が「他人事」なのだ。それは、この国の新聞、テレビ、ジャーナリストが現地に入らず、生で見た情報が入ってこないからである。
もはや覚えている人間も少なくなってしまったが、ベトナム戦争(1955年〜1975年)のときは、世界中からジャーナリストや作家、カメラマンが現地に赴き、己の目で見て聞いた戦争の実態を暴き出して世界中に届けた。
日本でも大メディアの記者だけではなく、開高健や石原慎太郎などの作家たちも現地に赴き、死の恐怖に慄きながら臨場感あふれる現地レポートを届けてくれた。
あの当時は、現地の米軍兵士たちもジャーナリストの役割をよく心得、よほどのことがない限り、取材をする人間たちに協力的であった。
だが、そうした現地の生々しい情報に接し、この戦争の理不尽さを知ったアメリカ人のなかから「反戦」運動が沸き起こり、日本でも連鎖し、アメリカはベトナムから敗退するという屈辱を味わったのである。
しかし、アメリカ政府と軍隊は「戦争に負けたのは軍事力のせいではなく、メディアが国民の支持を奪ったからだ」と結論づけたのである。
管理される戦場、失われた現場
その失敗を繰り返すまいと、メディアをコントロールして、都合の悪いものは見せない、知らせないという戦略をとってきた。
転換点は1991年の湾岸戦争だった。
記者は軍が許可したグループに限定され、行動は常に軍の監視下に置かれ、取材した素材も軍のチェックが必要になった。
軍は「スマート爆弾」がピンポイントで標的を破壊する白黒のモニター映像を、すべてのメディアに配布した。戦争とは、「血の流れない、クリーンでハイテク」なものという印象を世界中に植え付けようとしたのである。
2000年代のアフガン・イラク戦争に入ると、軍はさらに巧妙な「エンベディッド(埋め込み)取材」という手法を編み出した。
記者を特定の部隊に入れて、長期間寝食を共にさせる。記者に、自分を守ってくれる兵士たちに感情移入させ、批判的な記事が書きにくくなるという心理的効果を狙ったのである。
これに応じない「単独取材」を行うジャーナリストは、軍の保護対象外とされ、誤爆や拘束のリスクが飛躍的に高まり、ジャーナリストたちを怯えさせ、尻込みさせたのである。
ガザやウクライナで起きている戦争も、この延長線上にある。
イスラエル軍やウクライナ軍が自らドローン映像をSNSで発信し、それがそのままニュースに使われる。双方にとって都合の良い映像だけが洪水のように流されているのだ。
しかし、そうした軍のやり方に反発して、自らの死を賭して、戦争の現場に潜り込み、戦争の真実を伝え続けたジャーナリストもいた。
アフガン戦争ではセバスチャン・ユンガーという映像ジャーナリストが、最前線の前哨基地に、写真記者のティム・ヘザリントンと共に長期にわたって入り込み、戦争の真実を伝えた。
雑誌『ローリングストーン』の記者のマイケル・ヘイスティングスは、軍が隠したがった司令官たちの本音や、オバマ政権への批判をあからさまに報じた。この記事がきっかけで司令官は解任され、軍によるメディア操作の実態を暴いた勇敢なジャーナリストとして記憶されている。
日本のメディアは
なぜ戦場へ行かないのか
国際団体であるジャーナリスト保護委員会(CPJ)や国境なき記者団(RSF)が、毎年ジャーナリストの死者数を発表している。
これまではイラク戦争の最激化で、戦後最悪といわれた07年が約110名で最高だった。だが、イスラエルがガザ地区を攻撃し始めた23年から約100名を超え始め、昨年は約129名と過去最高になった。
だが、この犠牲者のなかで日本人ジャーナリストは少ない。なぜなら、新聞やテレビは、自社の記者を戦場はおろか、危険が予想される地域には行かせないからである。
テレビが現地からの生々しい映像を伝えるとき、そのほとんどがフリージャーナリストたちによるものである。
11年3月、東日本大震災で原発事故が起き、放射性物質が放出された。住民たちは情報の少なさに困惑しているのに、大手メディアは東北方面にいる記者たちに、本社に戻るよう指令を出した。
しかも、ほとんどの記者たちが、その指示に唯々諾々と従ったのである。
この国の戦争報道は「リアル」ではなく、日本人に「戦争は死そのものだ」という恐怖を実感させることができないために、強い反戦機運が湧いてこない。
かえって、戦争への道を突き進むことが「日本の利益になる」と考える、高市首相を筆頭とする右翼政治家たちが支持を増やす、危険な道をたどっている。
こうした現状をつくり出したのはメディアの責任といってもいいはずだ。
沢田教一、一之瀬泰造、橋田信介、山本美香など、戦地で取材中に亡くなったジャーナリストがいないわけではない。だが彼らのほとんどはフリージャーナリストたちである。
社説で「戦争反対」とお題目を唱えているより、自社の記者をガザ地区やイランに派遣して、現場から戦争の実態を報じさせたほうが、何十倍か説得力があるのはいうまでもないだろう。
記者の側も、社の規則がある、「外務省の勧告」や「旅券法による制限」があり、ビザが下りないなど、数々のいい訳を並べて行かないことを正当化しているのだろうが、行く気になれば方策はいくらでもある。
この国の危険な動きを止めるためには、戦争の実態を報じる一枚の写真、一本のルポルタージュが必要である。
だが、それも虚しい願望でしかないようだ。以下次号。
(文中敬称略)
<プロフィール>
元木昌彦(もとき・まさひこ)
『週刊現代』元編集長。1945年生まれ。早稲田大学商学部卒。70年に講談社に入社。講談社で『フライデー』『週刊現代』『ウェブ現代』の編集長を歴任。2006年に退社後、市民メディア「オーマイニュース」に編集長・社長として携わるほか、上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。日本インターネット報道協会代表理事。主な著書に『編集者の学校』(講談社)、『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)、『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、『現代の“見えざる手”』(人間の科学新社)、『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)など。








