約12.6haの広大な用地を
JR九州らグループが取得
2月10日、九州旅客鉄道(株)(JR九州)を代表とし、日鉄興和不動産(株)、JA三井リース九州(株)の3社で構成される企業グループが、博多区竹下の「アサヒビール博多工場」の用地について、アサヒビール(株)(東京都墨田区)と取得に向けた売買契約を締結したと発表した。契約日は2月4日で、土地の引渡日は2029年12月を予定しており、今後の開発計画については未定。JR九州らは、「今後は、福岡市をはじめとした関係者の皆さまと協力のうえ、これまで培ったノウハウを活用し、竹下駅周辺の魅力的なまちづくりに貢献できるよう取り組んでまいります」としている。
JR九州らグループが取得するアサヒビール博多工場の用地は、敷地面積12万6,200m2(約3万8,180坪)で、JR竹下駅の東口から約300mの距離にある。同工場は、1921(大正10)年4月に大日本麦酒(株)(現在のアサヒビールやサッポロビールなどの前身)の博多工場として操業を開始したのが始まりで、21年4月に操業開始100周年の節目を迎えた、福岡市内でも有数の老舗工場だ。
だが、アサヒビールの持株会社であるアサヒグループホールディングス(株)は、22年2月15日付で発表した生産・物流拠点の再編計画のなかで、25年度末をメドに博多工場の操業を終了させ、近隣へ移転するという予定を示していた。その後、22年6月にはその移転先として、佐賀県鳥栖市を候補地とし、鳥栖市に対して土地譲受申込書を提出した旨を発表。22年10月には佐賀県および鳥栖市と進出協定を締結し、新工場の名称を「アサヒビール鳥栖工場」としたことを発表し、26年から新工場での操業を開始する予定としていた。
ところが23年11月、建設や設備などにかかる費用が当初計画から大幅に高騰したことを受けて、3年をメドに鳥栖工場の操業開始時期を延期する旨を発表。それにともない博多工場での操業も28年末をメドに延長された。なお、同工場に併設されていた「アサヒビール園博多店」は、23年10月末をもって閉店している。
同工場の操業終了後の跡地活用をめぐっては、これまでもさまざまな検討がなされてきたが、今後、JR九州らグループの下で、どのような跡地再開発が行われ、竹下エリアがどのように変わっていくのか、その行方が注目される──。
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本誌では過去に、東を御笠川、西を那珂川に挟まれ、南は福岡都市高速環状線あたりまでのエリア一帯を「博多SOUTH」と呼称して、その歴史や地域特性、開発動向などについて触れたことがある。このエリアは、それまではどちらかというと市内の他エリアに比べて目立った動きが少なく、あまり注目されてきた場所ではなかった。だが、改めて注目してみると、JR竹下駅や福岡都市高速IC(半道橋、月隈、板付)などが近く、広域交通拠点である福岡空港や博多駅とも近接し、広域からのアクセスに優れている。また、まとまった平坦地が広がっていることで、現在もエリア内には住宅や団地、工場などが集積。そのポテンシャルは、意外に高いといえよう。
そして、この博多SOUTHエリアの注目度を圧倒的に高めたのが、青果市場跡地で22年4月に開業した「ららぽーと福岡」だ。九州初進出となる大型複合商業施設ららぽーとの開業効果によって、周辺のさまざまな開発を誘発。多数のマンションが供給されてエリア内の人口増に寄与したほか、周辺の地価高騰を招くなど、絶大なインパクトをもたらした。
その博多SOUTHでこれから、アサヒビール博多工場跡地という新たな大規模再開発が始まろうとしている。同地での跡地再開発は、博多SOUTHにどのような影響をもたらすのか──。今回、改めて竹下周辺を中心とした博多SOUTHの動向を見るとともに、アサヒビール博多工場跡地での再開発について考察してみたい。
古代から集落が点在
近世も田畑が広がる農村地帯
以前にも触れたことがあるが、まずは博多SOUTHエリアの成り立ちについておさらいしておきたい。
古代~中世の福岡・博多は、冷泉津と呼ばれる博多湾の入り江が深く湾入しており、現在よりもずっと内陸側に海岸線が食い込んでいたとされている。そうしたなか、博多SOUTH一帯は那珂川の河口付近に広がる肥沃な平野だったとされ、古代から多くの人が暮らしていた形跡が残されている。その代表的なものが、日本で稲作が開始された最初期の遺跡として、国の史跡にも指定されている「板付遺跡」(博多区板付2・3丁目)だ。また、この板付遺跡の周辺には当時、複数の集落が広がっていたようで、諸岡遺跡(諸岡4丁目)や那珂遺跡(那珂6丁目)、那珂休平遺跡(那珂4丁目)、金隈遺跡(金の隈1丁目)、宝満尾遺跡(東平尾3丁目)、比恵遺跡(博多駅南5丁目)、三筑遺跡(三筑1丁目)などの数々の遺跡のほか、東光寺剣塚古墳(東光寺町1丁目)や今里不動古墳(金の隈2丁目)などの古墳も見つかっている。古墳のなかでもユニークなのは、古墳時代初期の前方後円墳であり、九州で最も古い古墳とされる「那珂八幡古墳」(那珂1丁目)で、小高い山のようになった墳頂には「那珂八幡宮」という神社が建立されている。
7世紀ごろの飛鳥期には、博多の港から地方行政機関「大宰府」に向けて伸びる古代の官道が整備された模様で、今の九州管区警察学校(板付6丁目)付近からその痕跡が見つかっている。また、平安期にはいくつかの荘園があったことが記されているが、基本的には豊かな水田が広がる農村地帯だったようで、その傾向は中世・鎌倉~戦国期や江戸期に至るまで続いていたようだ。
明治期になると1889(明治22)年4月の町村制施行にともない、那珂村、麦野村、東光寺村、板付村、諸岡村、竹下村、そして井相田村の字雑餉隈以外が合併して「那珂郡那珂村」が誕生。なお、このときに市制施行によって福岡市も誕生している。89年12月には、九州鉄道(現・JR鹿児島本線)の博多~千歳川仮停車場間が開業。96年2月には那珂郡が御笠郡および席田郡と合併し、筑紫郡となった。
その後、九州鉄道は1907年7月に国有化され、13年9月に内閣鉄道院によって竹下駅が開設された。すると、21年4月には大日本麦酒(株)(現在のアサヒビールやサッポロビールなどの前身)の博多工場が竹下駅の近接地に竣工。「アサヒビール」などの生産を開始し、国内外に出荷するようになる。同工場は2本の高い煙突を備え、当時は相当目立つ存在だったよう。なお、同工場はその後も改修・増設などを繰り返しながら、100年以上にわたって同地で操業を続けているが、この工場こそが冒頭で紹介した「アサヒビール博多工場」だ。
明治、大正、昭和と時代が移り変わるのにつれて福岡市の都市化が進み、近郊に位置する那珂村でも新たな開発が進んでいった。26(昭和元)年発行の「福岡市及近郊実測図」(発行:都市計画福岡地方委員会)では、竹下・那珂・東光寺といった竹下駅の東側エリアをはじめ、五十川や板付などで集落が形成されている様子がうかがえる。ただし、それでも昭和初期の博多SOUTHの大部分には田畑が広がり、農村地帯の性格が濃かった模様だ。
しかし、日本が戦争に向かうにつれて、街の様子も変貌。とくに、博多SOUTHの南側にあたる雑餉隈では43年に九州兵器や九州飛行機の工場が稼働したほか、小倉造兵廠春日製造所なども合わせて、一帯は一大軍需工場群と化した。すると、そうした軍需工場で働く人員が周辺部の博多SOUTHエリアなどに集まり、都市化・宅地化を促進。40年4月には那珂村が町制施行して「那珂町」となった。
(つづく)
【坂田憲治】

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