「元木昌彦」の検索結果

既存メディアの衰退と新メディアの台頭について(1)
既存メディアの衰退と新メディアの台頭について(1)
 この国のマスメディアの腐敗は確実に、深く進行していて、もはや後戻りのできないところまできてしまっていると、思わざるを得ない。
酔いどれ編集者日本を憂う(後)
酔いどれ編集者日本を憂う(後)
そのうえ、この10年間で東日本大震災と新型コロナウイルス感染拡大という巨大な災禍に見舞われ、政治に期待できることは何もないと、身に染みてわかってしまったのである...
酔いどれ編集者日本を憂う(前)
酔いどれ編集者日本を憂う(前)
「日本人論」を書店で見かけなくなって久しい。昔は、日本人について書かれた本は、著者が外国人であれ、日本人であれ、内容が批判的でもよく読まれた...
【元木昌彦】追悼・立花隆 ジャーナリストはマックレイカーたれ。
【元木昌彦】追悼・立花隆 ジャーナリストはマックレイカーたれ。
立花隆さんが亡くなった。享年80。『文藝春秋』に書いた「田中角栄研究~その金脈と人脈」は調査報道の金字塔といわれている。あまり知られていないが、立花さんが角栄と金について最初に書いたのは週刊現代だった...
元『週刊現代』編集長・元木昌彦氏が実名で語る『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』トークイベント開催
元『週刊現代』編集長・元木昌彦氏が実名で語る『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』トークイベント開催
7月15日、元『週刊現代』編集長・元木昌彦氏が講談社などについて語るトークイベントが「Readin’ Writin’ BOOKSTORE」(東京都台東区)で開催された。聞き手は落合博氏...
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(後)
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(後)
本田さんが悩んだのは、日本人が自らの血を差し出してくれるだろうかということだった。
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(中)
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(中)
蔓延の源は、商業血液銀行と呼ばれていた買血業者の反社会性にあった。東京の山谷、大阪の釜ヶ崎の簡易旅館街に住む日雇労働者を狙って買血し、汚染された血液が病院に運ばれ輸血されて、血清肝炎が大流行したのだ。  さらに、常習売血者のほうも、血を売り過ぎてバタバタ倒れているというのである。
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(前)
【昭和のキーパーソン】売血から献血へと時代を変えたノンフィクション作家、故・本田靖春(前)
なぜ、マスコミがマスゴミといわれるようになってしまったのか。その理由を一人のノンフィクション・ライターについて語ることで明らかにしてみたい。
元木昌彦氏の『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』を追加プレゼント
元木昌彦氏の『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』を追加プレゼント
昨年、NetIBNewsで掲載した元木昌彦氏の「平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録」が『野垂れ死にある講談社・雑誌編集者の…
元木昌彦氏の「平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録」が単行本化~『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』を先着5名様にプレゼント
元木昌彦氏の「平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録」が単行本化~『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』を先着5名様にプレゼント
NetIBNewsで昨年掲載した元木 昌彦氏の「平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録」が『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)として単行本化された...
日本の未来を変えるか!数々の社会事業を立ち上げ(前)
日本の未来を変えるか!数々の社会事業を立ち上げ(前)
NPO法人創造支援工房フェイス代表理事・池本修悟氏は、大学時代からNPO(非営利団体)の事業サポートや社会活動を行う人たちのネットワーク化などさまざまな社会事業に取り組んできた。
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(4)
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(4)
浅利さんが劇団四季を突然退社したのは2014年6月だった。週刊新潮(7月3日号)によれば、劇団員を前に浅利さんがこういい出したという。「今年は劇団創立60周年。僕も81歳になった。医師からも、無理をしないで欲しいと言われている。今日は、僕が劇団トップとしてする、最後の話になると思う」。そして、みんなにボーナスをあげたいといったそうだ。
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(3)
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(3)
しばらくして、浅利さんから、「参宮橋を引き払って、あざみ野へ移る」と聞かされた。浅利さんや劇団員の汗と涙が染みついている稽古場を離れるのは辛い決断だったはずだ。あざみ野は、現在は閑静な住宅街だが、当時はまだ寂しいところで、都落ちという感じは否めなかった。
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(2)
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(2)
次第に四季の実力が認められるようになると浅利さんは、1958年に、石原慎太郎さん、江藤淳さん、谷川俊太郎さんら若手文化人らと「若い日本の会」を結成して注目を浴びる。1961年には日生劇場の取締役に就任する。浅利演出が世の中に広く認められるのは、1966年から始まった歌手・越路吹雪さんのリサイタル公演だった。
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(1)
日本最大のミュージカル集団に育てた創業者 劇団四季に賭けた浅利慶太氏の人生(1)
『キャッツ』や『オペラ座の怪人』など、日本最大のミュージカル劇団である劇団四季。その創業者である浅利慶太さんは、超一流の演出家であり、有能な経営者でもあった。劇団四季の復活からパリ祭(フランス革命記念日)の1日前に亡くなるその日まで、浅利さんが生きていた時代を一度たりとも忘れることはできない。
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(21)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(21)
平成13年7月。私が講談社から子会社の三推社へ移って間もなく、ノンフィクション作家の本田靖春から手紙をもらった。「このたびは、講談社を退かれるとの便りを聞き、本来ならばお伺いしてご挨拶申し上げるところ、とり急ぎ書状で深く深く感謝の言葉を述べさせていただきます。貴兄が講談社にもういないのだと思うと、ポツカリ心に大きな穴が開いたようで、寂しくなります。そして、一つの時代が終わったなあ、という思いにとらわれるのです」
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(20)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(20)
講談社の株主総会は毎年2月後半にある。私は役員になったことがないから詳らかには知らないが、局長以上の人事がここで決まるようである。 役員に昇格する者、役員を退任する者、子会社に出向させられる者など、社長以下一握りの人間たちの“意向”で決定され、サラリーマン人生の勝ち組負け組が決まるのである。  私は、社内人事には関心が
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(19)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(19)
振り返ると、私の講談社人生は、編集長を辞してからが「実人生」だったと思う。それまでは夢物語とまではいわないが、地を足で踏んでいなかった、そんな気がする。結婚してすぐに、ジャニーズ問題で婦人倶楽部に飛ばされたときは、心底辞めてやろうと考え悩んだ。だが、まだ私には若さがあった。
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(18)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(18)
週現編集長在籍は5年半。社史『物語 講談社の100年』によれば最長である。自分でいうのもおかしいが、他社も含めて、これほど順調だった編集長は、そうはいないと思う。取材先との緊張関係は何度もあったが、編集部内はベタ凪状態だった。
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(17)
平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(17)
私には愛社精神がない。大学は早稲田だが愛校精神など全くない。だが、自分が携わってきた週刊現代、フライデー、廃刊になってしまった月刊現代、ジャニー喜多川の件ですっ飛ばされた婦人倶楽部(廃刊)も好きである。愛しているといってもいい。週現編集長を辞するまでは、講談社という組織に属しているサラリーマンだと考えたことはほとんどなかった。