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2019年10月23日 10:14

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(21)

 平成13年7月。私が講談社から子会社の三推社へ移って間もなく、ノンフィクション作家の本田靖春から手紙をもらった。

 「このたびは、講談社を退かれるとの便りを聞き、本来ならばお伺いしてご挨拶申し上げるところ、とり急ぎ書状で深く深く感謝の言葉を述べさせていただきます。(中略)
 貴兄が講談社にもういないのだと思うと、ポツカリ心に大きな穴が開いたようで、寂しくなります。
 そして、一つの時代が終わったなあ、という思いにとらわれるのです」

 日付は7月1日。

 本田はこの頃、月刊現代に『我拗ね者として生涯を閉ず』の連載を始めた。

 重度の糖尿病で、片目を失明、もう一方の視力もほとんど失くしていた。壊疽が進行して両脚切断という状態で、万年筆を手に縛り付けて、一字一字、石に刻むように原稿用紙を埋めていった。

 本田は「戦後」にこだわり戦後民主主義をこよなく愛した。

 ある雑誌のインタビューでこう話している。

「無意識の内に宿題を果たさなくてはいけないと思っているんですね。自分たちが生きてきた“戦後”とは何だったのか、いわば私史を書いているつもりなのです」

 私は昭和20年11月生まれだから、本田と私は一回り違う。物心ついたときには戦後はやや遠ざかり、デモクラシーという言葉は飛び交っていたが、民主主義の何たるかを知らなかった。

 連載は何度か中断はしたが、あと1回分を残して亡くなるぎりぎりまで書き続けた。

 平成16年12月3日、意識がなくなり危篤状態になった。

 医師から、延命処置をとるかと聞かれ、妻の早智はこう答えたという。

 「本田は最後の作品を書き上げるためだけに生きてきました。それがかなわなくなってしまって残念でしょうけれど、もう十分頑張ったと思います。これ以上頑張れとは言えません。私たち夫婦の間では、延命治療はしていただかない、と決めていました」

 この亭主にしてこの妻あり。

 それから約22時間後の12月4日の午後、息を引き取った。死に顔には笑みが浮かんでいたという。

 私が定年退社した時、いくつか心に決めたことがあった。以後、講談社の敷居は二度と跨がない。OB会には入らない。他人が聞けば、子供じみた考えだと笑われるだろうが、わたしのささやかな意地であった。

 決して講談社を恨んだり嫌っているのではない。こんな半端者に、36年間も無駄飯を食わせてくれた恩義は、忘れずに心に刻んである。

 本田靖春風にいうなら、「これからの人生、いささかでも胸を張って一人で生きていくために、自分に課した禁止事項」である。

 数は少ないが、講談社時代に気の合った人間とは、今でも時々会って酒を酌み交わしたりしている。

 先に書いたように、オーマイニュースを離れてからは、早稲田大学近くの“塹壕”に籠って、月刊誌の連載インタビューやコラム、ネットの日刊サイゾーやJ-CAST、プレジデント・オンラインなどに寄稿して、酒代を稼いでいる。

 愛川欽也がやっていた「パックインジャーナル」(テレビ朝日のニュース専門チャンネル・朝日ニュースター)に準レギュラーとして出ていたこともある。

 安倍晋三首相の第一次政権が年金問題などで大きく揺れ、崩壊寸前だった。次の総選挙では民主党政権ができる、政権交代が現実になると、騒がれていた頃だった。

 愛川は自民党嫌いで、小沢一郎支持だった。私も、自民党長期政権が崩れ、政権交代が実現するのは歓迎だった。

 しかし、たとえ民主党政権が実現したとしても、裏で小沢一郎が実権を握り、いいように政権を振り回すのならば、結局、第二自民党ができるだけではないか。期待が大きい分だけ、失望も大きいはずだから、あまりもろ手を挙げて政権交代バンザイ、民主党バンザイといわないほうがいいと、愛川の番組でもいい続けた。

 そのたびに愛川は、「元木さん、何でもいいんだ、政権交代が実現できれば」と、顔を真っ赤にして、政権交代を無邪気に礼賛していた。

 そうしたことが続いたある日、番組を終えて局を出たところで、後ろからディレクターが声をかけてきた。

 ピンときた私は、彼が「申し訳ないのですが、愛川が、元木さんには少し休んでもらってくれといっているので……」といい出したので、「わかった。気にしないでくれ」といった。

 彼は何度も、「そのうちにまた」と繰り返したが、そのままそこを離れた。

 私がいった通りとはいわないが、民主党政権は3年しか続かずに崩壊した。野党政権の惨状を嫌というほど見せられた有権者は、第一次と何ら変わることのない安倍政権を、これまた無条件で支持し、一強といわれるほどのモンスター政権をつくり上げてしまった。

 民主党政権の罪は大きすぎたといわざるを得まい。

 平成の後半は、原稿に追われてはいたが、そのほかは比較的穏やかに過ぎていった。

 それが突然変わったのは、平成23年3月11日だった。

 その日、私は中国の北京にいた。1週間のスケジュールで、上海、南京を回って前日に北京へ着いた。

 私の昔からの知り合いで、月刊誌『自由』の石原萌記編集長が率いる愛華訪中団のメンバーの1人として参加していたのだ。

 この訪中団は、ほぼ毎年、上海市の招きで行われ、その時が第10回目であった。

 メンバーは東京電力の勝俣恒久会長と副社長、それ以外は、花田紀凱元週刊文春編集長や私のように、雑誌や新聞のOBたち10数人だった。

 南京で、新装された「南京大虐殺記念館」を訪れ、北京では丹羽宇一郎中国大使(元伊藤忠商事会長)を表敬訪問をした。

 翌日、東電が北京に支社をつくり、その開所式に来ていた勝俣会長と合流して、午後、中国の要人に会うために小型バスで、向かっていた。

 私は、来る前に買ったiPadで、朝日新聞DIGITALを見ていた。

 すると速報が流れ、東北地方に強い地震が起きたと報じた。その時はたしか、マグニチュード7ぐらいだったと記憶している。

 私は、後ろの席にいた勝俣会長に、「地震らしいですよ」とiPadを見せた。副社長と2人で画面を見ていたが、それほど深刻な表情ではなかった。

 バスが着いたので、iPadをオフにして会談に臨み、1時間半ぐらい経って、バスに戻り、再びiPadをオンにした。

 すると、朝日新聞DIGITALの画面では、マグニチュードが9・いくつかになっていたのだ。

 これは相当大きな地震だ。再び勝俣会長にその画面を見せた。

 ジッと画面を見ていた勝俣の様子は、先ほどとは違って深刻だった。

 他の連中も地震のことを知ったようだ。中の一人が、「福島には原発があるな。大丈夫か」と大きな声を上げた。

 私は、東電の人間に知り合いは多いが、原発には批判的だった。それでも何度も原発を見てほしいと頼まれ、仕方なく、新潟の柏崎刈羽原発を一度だけ見に行ったことがあった。

 私の原発立地に関する知識は乏しく、福島の原発と東電とがすぐには結び付かなかった。

 勝俣たちは、慌ててバスを降りていった。東電の北京支社へ行って、情報収集するためだろう。

 一行の中には、仙台から来ている者もいて、心配だから今日にでも日本へ帰りたいということになった。

 携帯電話はつながらなかった。

 中国の航空会社に連絡してもらったが、羽田も成田も閉鎖されていて、行けるのは名古屋空港だが、東京までの新幹線も在来線もストップしているから、日本に着いてもそこからの足がないという。

 東北地方で起きた地震で、東京の空港が閉鎖されてしまった。地震の大きさを思い知らされたが、情報がないので、ひとまずホテルへ帰ることになった。

 花田との相部屋だから、一緒に部屋に入り、すぐテレビを付けた。その瞬間の驚きを生涯忘れることはないだろう。

 巨大な津波が東北の町や村に襲いかかり、船も、ビルも、家も、人も、何もかものみ込んで荒れ狂っていた。

 失礼ないい方になるが、地獄絵のようだった。画面を見ながらあわてて、カミさんにメールをした。

 幸い、すぐに「全員無事」という返事が来た。

 だが花田のほうは、メールを出しても返事が返ってこない。心配したが、だいぶ経ってから、無事だと返事が来た。

 その夜は、食事も忘れて、テレビやiPadで、地震や津波情報を見続けた。

 翌日の朝、幸い成田空港が使用できるという連絡があり、バスで北京空港へ向かった。やはり、帰れなかった勝俣たちも一緒のバスにいた。

 私は記憶していないのだが、前日の夜、一行を前にして、ホテルに帰ってきた勝俣が、「福島原発が事故を起こしたことを沈痛な顔で報告した」そうだ。

 彼らは、一便早い飛行機で北京を立った。

 成田から東京・中野の自宅へ帰るのは大変だった。在来線の多くは運転を中止していたため、電車は満員で、重いトランクを引きずりながらの乗り継ぎはかなり応えた。

 震度5でも危ないといわれていたボロ家はほとんど無傷だった。地震の時、家にいたのは次男と愛犬・モエだけだった。

 次男によると、モエはしばらく震えが止まらなかったという。

 翌日の日曜日は、知り合いの出版記念会があり、まだボーツとした頭で出かけた。

 会で、旧知の朝比奈豊毎日新聞社長(当時)に会った。

 彼に、「原発事故はどうか」と聞いた。「相当危ないようだ」と答えが返ってきた。

 そこで私は、勝俣東電会長と中国で一緒だったことを話す。朝比奈は驚いた。

 私は、「東電は会長が全てを握っている。その会長が不在のため、原発事故の対応に遅れが出て、それが大事故につながったということがあるかもしれない。調べてくれ」といった。

 その後、清水正孝社長も地方に行っていて不在だったことが判明するのである。

 私の真意は、原発事故という大惨事が起きた時、より悪化させないための対応策を考えるのは、トップの決断にかかっている。

 それが、電話も通じない情報も少ない北京で、勝俣が、最適な判断を下せたとは、私には思えなかった。

 もし、原発が崩壊して放射能が空中にまき散らされたら、チェルノブイリ原発事故以上の深刻な事態になるのではないか。

 それを調べてくれるよう朝比奈社長に頼んだのだが、事態は私の考えているのとは違う方へ動き出してしまったのである。

 勝俣会長が事故当時、日本にいなかったことは、あっという間に日本中が知るところとなった。

 だが、メディアの矛先は、東電のカネで中国旅行を楽しんだマスコミの連中がいる、それは誰だと、新聞、日刊紙、週刊誌が騒ぎ出したのである。

 勝俣が会見で、某記者が、「東電が、マスコミ訪中団にカネを出していたことは間違いないか」と質問したのに、勝俣が「そうだ」と答えてしまったから、騒ぎはさらに広がってしまった。

 私のところへ、多くの社からインタビューさせてくれと申し込みがあった。

 他のほとんどの人間は、取材には答えなかったようだが、私は逃げなかった。

 われわれも、現役の時には、似たようなケースを取材し、答えない相手に対して、「答える義務がある。あなたには説明責任があるはずだ」と執拗に追い回したものである。

 自分が当事者になったから、取材に答えないというのは、元取材者としてやってはいけないことだと考えたのである。

 インタビューに答える前に、この訪中団を呼びかけ、実質的な団長である、石原萌記『自由』編集長に、東電のカネが本当に入っているのかを聞きに行った。

 というのは、最初にも書いたが、この愛華訪中団というのは、徐という若い中国人が絡んでいるのだ。

 徐は、慶應大学に留学して卒業後、出身の上海市の広報のような仕事をしていた。

 私も前から親しくしていた。徐と石原の間で、これからは日中の人的交流を広げていかなくてはいけない、そこでマスコミにいる人間を中心に、年1回、訪中団を送ろうと話がまとまった。

 それで、私にも「行かないか」という誘いがあり、毎回十数人で訪中することになったのである。

 期間は6日間。中国での滞在は上海市がもつ。行き返りの費用は石原事務所が負担、各自の負担は5万円で、これは中国側への手土産代だと聞いていた。

 石原事務所が東電と親しいから、幾何かのカネが東電から石原に出ているだろうとは思っていたが、東電の丸抱えなどとは、考えたこともない。

 私の質問に、石原は、「東電丸抱えなんていうことは全くない」と答えた。

 石原という人は、この頃は保守派雑誌をやっていたが、元々は社会党や民社党に近い人である。昔から人的交流事業に熱心で、中国の前は、旧ソ連に毎年マスコミ人を連れて行っていた。

 私も何度か誘われたが、現役で時間がないため、一度も行ったことはない。

 この訪中団も、東電の人間が団長を務めることが多かったが、元民社党の江田三郎の息子である、江田五月も団長を2度ぐらいやっている。

 思想的には、左から右までをカバーする、不思議な人物で、『自由』の保守的な論調は好きではなかったが、人間的にはなかなかの人物である。

 私を息子のように可愛がってくれて、講談社を辞めて『自由』をやってくれないかといわれたこともあったが、それは丁寧に辞退した。

 石原には、「取材に来た人間に、石原さんのところへも聞きに行けといいますから、会ってやってください」といっておいた。

 彼は、一人一人の取材に丁寧に答えてくれたようだった。

 しかし、原発事故を起こした東電憎しで凝り固まっている取材記者たちは、私が話してあげた10のうちの1も聞こうとしないで、訪中団に東電のカネが出ているのは間違いないのか、勝俣会長とは旅行中、どんな話をしたのかにしか関心はなかった。

 週刊誌とはそういうものだからいたしかたないが、最初にタイトルありきである。

「東電にたかったマスコミ訪中団」

 それに合わせて、こちらの話をつぎはぎしていくのだから、それ以外のものには聞く耳を持たない。

 かくして、原発で大儲けしている東電にカネを出させて、優雅な中国旅行を楽しんだ悪徳マスコミ人というレッテルが貼られた。

 一緒に行った朝日新聞の論説主幹までやった人間が、東電の子会社で、東電のPR誌を作ってカネを得ていたと報じられた。

 その人間は競馬好きで、私とは旅行中、競馬の話ばかりしていたのだが、そういううまい汁を吸っていたとは、まったく気がつかなかった。

 この騒動で、私のジャーナリズム人生も終わりかと観念したが、そのうち、こういう話も原発事故の深刻さの中で消えていった。

 周りの人間も、こいつが東電とぴったりくっついていれば、もう少しましな生活をしているだろうと思ったのだろう、このことで、執筆を断ってきたところはどこもなかった。

 考えてみれば不思議なものである。あれだけの原発事故を起こした一番の責任者である勝俣東電会長に、中国の北京で、地震の情報を最初に教えたのが私だったというのは、下手な小説家でも書かない、まさに「事実は小説より奇なり」である。

 石原萌記は、その後も何度か中国へ訪中団を連れて行ったようだが、数年前に亡くなられた。

 その『自由』にいた縁で、私と親しくなった友人に猪坂豊一という男がいた。

 淡路島の出身で、家は米屋だという。早稲田大学を出て、しばらく政治家の秘書をしていたらしい。

 私が会ったときは『自由』の編集者だった。だが石原とそりが合わず、そこを辞めてぶらぶらしていた。

 私も、その頃は、週現から婦人倶楽部へ飛ばされていたため、時間は十分にあった。

 気のいい猪坂と気が合って、しょっちゅう連れ立って飲んでいた。この男、おかしなところがあって、自分のことはほとんど話さないのだ。

 私と同じぐらいだろうと思うが、自分の年も早稲田大学の何学部に何年ごろいたのかも、聞いても話さないのだ。

「いいじゃない、そんなことは」

 それで終わりである。

 こっちも、それ以上は聞かなかったが、彼が亡くなってずいぶんと日が経つが、猪坂という男が、どう生きてきて、何を考えていたのか、謎のままである。

 汚いジャンパーといつも同じのTシャツにヨレヨレのズボン。頭はぼさぼさ。この時代には珍しい、だらしなさそうに見える男だが、話せばまともなことをいってくるし、こういう人柄だから、多くの人に好かれた。

 家も近いので、赤坂あたりで呑んで、一緒にタクシーで彼を送っていったことが何度もある。

 だが、部屋が汚いというのもあるのだろうが、少し寄っていかないかと、私にいったことはなかった。

 女がいるはずもなかったが、どんなに親しくても、自分の内側に入ってこられるのを極端に嫌がった。

 一度こういうことがあった。われわれの先輩編集者が、淡路島へ取材で行くことがあった。

 彼は、猪坂に世話になっていると、実家を調べて、親に会いに行った。

 そのことを、帰ってから猪坂に話すと、烈火のごとく怒った。そして私に、「無断でオレの実家に行ったのは許せない。これからはあの人とは会わない」といって、呑み会の案内なども一切しなくなった。

 それを除けば、付き合っていてこれほど面白い男はいない。

 だがいつまでもブラブラしてるわけにはいかないから、私の友人で、元読売新聞政治部長で、政治評論家になった宮崎吉政の秘書をやっていた、今村富也と3人で、銀座で呑みながら、猪坂の収入口を考えたことがあった。

 私が、マスコミの連中を集めて、月に1度か2度、勉強会をやるというのはどうかといった。

 政治家を呼ぶ勉強会にして、そこに企業の広報の連中も入れるようにしたらいい。

 中には会費を払っても出たいという企業広報があるから、そうした企業が10社ぐらいあれば、猪坂の生活ぐらいなんとかなるだろう。

 その会を「マスコミ情報研究会」と名付けよう。こういうものは、なんとなくありがたそうな名前がいい。それに「マス研」というのは、マスターベーション研究会みたいで、猪坂にピッタリじゃないか。

 そんなことがきっかけで、マス研ができた。猪坂という稀有なキャラクターもあって、マス研には、出版社の編集者だけでなく、フリーライターや作家なども集まって来た。

 勉強会よりも呑み会に熱心だったが、マス研に集う人間は500人から600人にもなった。

 企業広報も、一社3万から5万円という安さもあって、かなりの社がカネを出してくれたようだ。

 永田町でもマス研の名は広がっていった。それと同時に悪評も広がったが、中曽根康弘総理の時は、中曽根の秘書を巻き込んで、マス研主催の雑誌の会に、中曽根に来てもらうよう根回しをした。

 総理と番記者たちが揃って、われわれの会場に来て、中曽根総理は、部屋の中に入って来て3、40分ぐらい歓談してくれた。

 新聞記者たちは、私たちがいくらいっても中に入ってこようとはしなかった。翌日の首相動静には、マス研のことは一行も載っていなかった。

 中曽根裁定といわれる、竹下登幹事長、安倍晋太郎総務会長、宮沢喜一大蔵大臣が後継を争ったとき、竹下は竹下自身が、宮沢は、酒癖が悪いことを理由に、ナンバー2の河野洋平が出てきてくれて、われわれの質問に答えてくれた。

 竹下は、紀尾井町の料亭を指名した。メシを喰いながら話をしようというのである。それでは、われわれのほうも会費を払うというと、それはダメだという。

 そこで私が、「条件がある。料亭料理など出されては、新聞記者たちに示しがつかない。そこで、出してもらえるなら、芋の煮っころがしにしてくれないか」

 当日、各人の席の前に、見事な芋の煮っころがしが並んだ。

 猪坂とは週に2、3回は呑んでいた。彼は、中古の自転車に乗って、赤坂でも永田町でも、銀座でもやってきた。

 さすがに、深酒をするとタクシーで送っていったが、少しぐらいならふらふらしながら漕いで帰った。

 私が編集長になり忙しくなると、会うのは頻繁ではなくなったが、その間に猪坂は、マス研に在外公使館の人間を招くようになり、その数は次第に増えていった。

 猪坂は、いつもの服装に、これもヨレヨレになったネクタイを首に巻き付けて、大使館へ出入りした。

 呑み会は、国際色豊かな人的交流の場となった。特にソ連大使(当時)にいたく気に入られ、大使の部屋には出入り自由だった。

 ある時は、大使のたっての頼みで、たしか新潟まで一緒に行ったことがあったと記憶している。猪坂は飛行機が嫌いだった。それでも大使の頼みなので、死ぬ気で飛行機に乗ったと話していた。

 猪坂の食生活はひどかった。朝は即席ラーメンかなにかですませ、夜は酒を呑むから、身体にいいわけはない。

 ある日突然、頭が痛くなり、近くの医者に自転車で駆け込んだが、そのまま意識不明になってしまった。

 そこから中野総合病院(当時)に移された。ベッドで寝ている猪坂は、安らかな顔をしていた。病院の計らいで、2カ月ぐらいそのまま置いてもらっていた。

 延命装置を外すには誰か親類を呼ばなくてはいけない。その頃には両親は他界していて、弟もだいぶ前に亡くなっていた。

 ようやく姪だったかを探し当て、来てもらった。すぐに延命装置を外してくれといったそうである。

 猪坂は、私を含めた親しい人間誰一人に言葉を残すことなく、忽然と消えてしまったのである。猪坂らしい別れ方ではあった。

 今でも猪坂の「ねえねえ、今晩呑もうぜ」という声が聞こえる。

 猪坂で思い出すのは、清野真智子のことである。私が会ったときは週刊サンケイ(休刊)の記者をしていた。

 記者にしてはややケバイ感じだったが、シャープな記者だった。その後、どこかのパーティで偶然会い、家が近いこともあり、猪坂と三人でよく呑んだ。

 本を片時も離さない。呑み会でも、先に来ていて本を読んでいた。

 後で知るのだが、産経新聞の妻子持ちと付きあっていた。彼女のほうがぞっこんで、私の前でもよく、彼氏の自慢をしていた。

 呑むとよくはしゃぎ、新宿の二丁目近くの地下にあったカラオケスナックで、朝方までよく歌った。高橋真梨子の『五番街のマリーへ』が好きだった。

 自称だが、以前、クラブで歌っていたというだけあって、なかなか聞かせる歌い方だった。

 いつ頃だったか忘れたが、清野が落ち込んで、呑み会にも顔を出さなくなったことがあった。

 呼び出すと、やつれていて元気がない。聞いてみると、彼氏が突然、亡くなってしまったというのである。

 妻がいるから葬式にも出られず、鬱々として、何もする気にならないという。

 その前後だっただろうか、乳がんに罹ってしまった。幸い、大事には至らなかったが、10年ぐらい経ってから再発したのである。

 福島県の飯坂温泉の古い旅館の娘だったが、うまくいかずに父親がたたんでしまったと聞いた。

 元気を取り戻し、呑み会やカラオケも始めたが、ふっと姿を消してしまった。

 しばらくして手紙をもらった。父親が亡くなり、母親を一人にしておけないので、飯坂に戻ったというのだ。

 それからしばらくして、清野が乳がんのため亡くなったと、母親から猪坂のところに連絡があった。

 いつかはいいノンフィクションを書いてみたい。そういっていたが、その夢は実現しなかった。

 マス研の“マドンナ”といわれた清野は、一人の男に尽くし、自分も少し遅れて後を追ったのである。

 ところで、この連載のきっかけは、(株)データ・マックスの児玉直社長から、「平成という時代だけに絞って、自分史を書いてみないか」といわれたことだった。 

 それまで昭和とか平成にこだわったことはなかった。だが、思い起こすと、私がフライデーの編集長になったのは平成2年で、週刊現代の編集長を歴任して、インターネットマガジン・Web現代を立ち上げた後に子会社に出向、平成18年に定年退職してフリーの雑文書きへと、動きのあった時代だった。

 名もない、いち編集者の私史など読む人はいないだろうと思っていた。だが、私の友人、知人だけだろうが、「読んでいるよ」「面白い」といってくれるのが励みになった。

 編集者という仕事柄、様々な人に会って、多くのことを教えてもらった。

 だが、編集者というのは因果なもので、親しくしてもらった人の多くは私より年上だったから、古い住所録を見ると、鬼籍に入った人の名前がズラリと並んでいる。

 立川談志師匠が70になった頃か、私に、「話し相手がいなくなるというのは寂しいもんだよ」といった。

 彼は記憶力が抜群だったから、子どもの頃に聞いた落語家たちのことを、昨日聞いたように話してくれた。そうした古い寄席の話から、当時観た映画、レコード、若い頃に出ていたキャバレーの話などのことを、往時を知っている人間と語り合いたかったのだろう。

 そういっていた談志師匠もいなくなり、友達付き合いをさせてもらった弟の松岡由雄も亡くなって早3年が経つ。

 早稲田大学のすぐ近くのオフィスに籠り、朝から晩まで一人でいると、様々な顔が浮かんでくる。

 「寂寥感」というのはこんなことをいうのであろうか。

 私が何とか編集者としてやってこられたのは、その人たちのおかげである。

 中でも、小柳明人、朝倉喬司、水谷喜彦という“バカ”たちのことは忘れられない。彼らは、私が週刊現代の現場だった頃に、私の班にいて、一緒に仕事をした記者たちだ。

 この業界でバカは褒め言葉である。週刊誌はバカでなくてはできない。そしてバカな奴ほど、いつまでも懐かしいものである。

 小柳とは、私が入社してすぐに配属された月刊現代時代から、一緒に仕事をしていた。最初に会ったとき、「あんたが元木さん、よろしく」と馴れ馴れしく寄ってきた。

 本人曰く、東海大学の学生だったが、日大闘争にのめり込み、学校をおっぽり出されたそうだ。現代に来る前には、光文社の女性自身で記者をやっていたそうで、トレンチコートを着て、煙草をふかしている姿は古参記者風だったが、私より年下だった。

 地声が大きい。酒を呑むとさらに大きくなって、調子っぱずれな「練監ブルース」をガ鳴りたてた。

 声の大きい奴に悪人はいないというが、この男も気持ちのいい奴だった。

 バリケードの中で知り合った女性と一緒に暮らしていて、子どももいるという。彼女は図書館の司書をやっていると聞いた。

 小柳の特技は「歩きながら寝ることができる」ことである。週現で山口瞳の「競馬真剣勝負」を連載する時、「手伝ってくれ」と誘った。

 競馬のことなど全くわからない奴だったが、ギャンブルは下手だが好きだった。連載を始めると、仕事そっちのけで、朝から馬券を買い始めた。

 レースが始まると、大声で自分の買った馬の名を呼び、ゴール直前では絶叫した。

 だが往々にして、馬を間違える。「お前の買った馬はどんケツだよ」というと、「ああそうだった」と初めて気づくこともしばしば。

 そういう買い方だから、メインレースの前に持ちガネ全部がなくなることもしばしばである。「元木さん、すこし貸してくれない」と猫なで声で寄って来る。渋々貸すが、貸したカネは絶対返さない。

 たしか秋の菊花賞だったと思う。京都競馬場へ山口瞳と3人で行ったことがあった。夜、競馬が終わって、山口の行きつけの店、祇園の「山ふく」へ行って食事をした。

 店を出て、ブラブラ骨董品屋を眺めながら歩いていると、かすかにいびきの音が聞こえるのだ。どうやら前をふらふら歩いている小柳らしい。

 前に回って見ると、酔いが回ったらしく、目をつぶり、半睡状態である。細い路地だからクルマの心配はないが、そのままにしておくわけにもいかず、起こして宿まで連れて行った。

 寝てから鼾のうるさいこと。あまりのうるささに、枕を顔の上にかぶせたが、朝方まで眠れなかった。

 小柳は、本名を松浦といった。私が週現に移った頃だったか、私の班の専属記者になった小柳から、今の彼女と結婚をするから司会をやってくれないかと頼まれた。

 二つ返事で引き受けたが、彼がいう条件を聞いて、やや腰が引けた。松浦という本名でやるのはいい。だが、彼女の両親たちが来るので、「オレが講談社の社員だということに」してくれというのである。

 「そんなことしたってすぐにばれるぞ」といったが、彼女の両親にはそういってあると、頭を下げられた。小柳のほうの親戚は一人も来なかった。

 主賓の、私の先輩、小田島雅和には、「こういうことなので、よろしく」と頼んで、一応、無事に式は終わったが冷や汗ものだった。

 私が引きずり込んだ競馬に、小柳はのめり込んだ。当時馬主会の会長だった中村勝五郎に頼んで、ゴンドラの馬主席に、雑誌記者たちが入れる部屋を作ってもらったが、そこに毎週土日、小柳の姿があった。

 私が週現から婦人倶楽部へ異動させられると、小柳も、週現から離れた。

 画商を始めたのである。中国の若手の画を安い値段で買い付けてきて、バブル成り金に高い値段で売るのである。

 経験もないものが、そんなことできるわけがないと思っていたが、意外にも順調に商いは伸びていったのだ。

 そのためには利用できるものは何でも利用した。馬主会の中村会長は、千葉県の味噌問屋で、大地主でもあった。

 食えない若手の絵描きたちを家に下宿させて、好き放題絵を描かせていた。その中には藤田嗣治などもいたという。

 いわゆる「旦那」である。銀座の松屋の大株主でもあった。そこで小柳は、私に内緒で、中村のところへ行き、彼の持っている中国の若手の画の展覧会を、松屋でできないだろうかと頼み込んだのである。

 頼まれたら嫌とはいわない大旦那は、口を聞いてくれて、展覧会を開催したそうである。私には何の連絡もなかったが。

 羽振りの良さは、競馬場で会うとすぐにわかった。中国人の女性を連れ、財布から万札を抜き出しては、これとこれを買って来てくれと命じていた。

 1度だけ、彼に銀座でおごってもらったことがあった。リムジンをチャーターし、クラブのボーイにチップを渡し、クルマを預かってもらっていた。

 さほど高い店ではなかったが、小柳は常連らしく、黒服たちに横柄な態度で何事か命じていた。

 腹は出て、似合わないダブルの背広を着たところは、三流のギャングのようだった。

 だが、その豪勢な生活も、バブルが弾けると同時に終わった。小柳がえらい借金を抱えて逃げているなどという噂が聞こえてきた。

 私が、週現の編集長になってしばらくして、小柳が「おめでとう」といって顔を見せた。

 「カネのある時は顔を出さないで、なくなると来るんじゃない」と一応、小言をいったが、昔の仲間、何をしに来たのかはすぐにわかる。

 もう一度記者に戻りたい、そういうことである。若い編集者に、「これは小柳という元ここの記者だ。お前の班で使ってくれ」といった。

 こうして尾羽打ち枯らして舞い戻ったが、困ったのは、私と昔から親しいことを、若い編集者たちに吹くことだ。

 デカい図体をゆらゆらさせて、編集部の中で横柄に振る舞う小柳は、他の記者からも煙たがられた。

 だが、そんなことはお構いなしに、私の席へ来ては、大声で昔話をした。

 そんな小柳が、長崎へ行ってくるといいに来た。何の用でと聞いてもはっきり答えない。

 しばらくして、朝、家に電話があった。小柳が「がんになった」とボソッといった。

 長崎の友だちのところへ来て、病院で検査を受けたら、大腸がんだか直腸がんだといわれた。こちらにしばらくいるのでと、彼にしては珍しく沈んだ声だった。

 「大事にしろよ」といって切った。

 2,3ヵ月経った頃、編集部に戻ってきた。がんの状態を聞くと、「まあまあ」だと言葉を濁した。

 戻って来てからは、前よりも増して、銀座で呑む回数が増えた。クラブの請求書だけではなく、いくつかのレストランから、「小柳さんが来て、請求は元木さんにしてくれといわれた」と電話があった。

 「いいかげんにしろよ」とはいったが、それで引っ込む奴ではない。顔はむくみ、醜く太っていった。

 がんから1、2年が経った頃だったか。あれだけ太っていた小柳が痩せ始めたのだ。

 銀座のクラブでも、寒いといって毛布を体に巻いていた。記者仲間だった朝倉喬司や宮崎学に声をかけ、小柳は長くない、最後になるかもしれないから、一緒に呑もうと誘った。

 痩せた小柳は、身体中に毛布を巻いても寒いと震え、酒にはほとんど口を付けなかった。

 小柳が入院したと聞いたのは、その呑み会のすぐ後だった。入院するが、カネが払えないために追いだされる。いくつか病院を移り、私が見舞いに行ったのは、築地の聖路加病院のホスピスに入っている時だった。

 部屋を訪ね見回したが、人の気配がない。診察でもしているのかと、出ようとした時、「もっちゃん」という声が部屋の奥から聞こえた。

 「いたのか」と中に入ると、見知らぬ人間が、ミイラのような姿で車椅子に座っていた。

 「オレだってわからないだろう」、そういう声はたしかに小柳だが、じっと見るが、面影もない。

 「タバコが吸いたい」というので、車椅子を押してエレベーターで屋上へ行く。

 屋上にはぐるりと金網が張り巡らされている。小柳がポツリという。

 「自殺したくても、こんな身体では、自殺もできないんだ」

 ここへ入る前に、飛行機に乗って、彼の故郷である札幌へ行ったそうだ。友人たちに会い、これが最後だと、札幌競馬場へお別れに行ったという。

 私は何もいうことができなかった。別れ際、「またくるから」と、彼の肩をそっと抱いた。

 その二日後、小柳は亡くなった。まだ50代半ばだったはずだ。

 通夜で、長崎にいる小柳の大学時代の親友・小橋洋治に会った。カネがなくなると彼のところへもらいに行っていたそうだ。

 全部合わせると数千万にはなるでしょう。「でも憎めないいい奴でした」そういって小橋は笑った。

 小橋によれば、がんの薬を処方されていたのに、小柳は、「これを飲むと女とできなくなる」と、薬を飲まなかったそうである。

「バカな奴だ。でも、小柳らしいな」。そういって笑い合った。

 葬儀の朝、前夜、呑み過ぎて、気がついたら葬儀は終わっていた。小柳への弔辞を頼まれていた。「悪い、小柳」そういいながら、「お前とオレらしくていいか」とひとりごちた。小柳が頷いた気がした。

 朝倉喬司は、やはり私が婦人倶楽部へ異動したのをきっかけに独立してノンフィクション・ライターになった。

 朝倉は、私のところで、長く続いた連載「男と女の事件簿」のメインライターをやっていた。

 ハンチングを被り、それを手で持ち上げながら、取材相手に、「どうもどうも朝倉です」という独特の取材スタイルで、どんなヤバイ取材でも、苦も無く取材対象に食い込んでいった。

 早稲田大学時代、アナーキスト運動に関わり、中退している。本名は大島。

 主として犯罪ルポルタージュや犯罪の裏面史を得意分野とし、1988年から1994年まで現代書館の雑誌『マージナル』の編集委員も務めている。

 河内音頭にほれ込み、毎年、東京の錦糸町で河内音頭祭りを開いたりした。

 書くものは鋭いが、ひょうひょうとした風貌、やさしさ、酒を呑んだ時の陽気な人柄に、多くの人が惚れこみ、朝倉シンパとでもいうような人たちが大勢いる。

 私も朝倉とは、仕事よりも、朝倉シンパたちと一緒に、酒を呑むことが多かった。

 興が乗ると、小皿を割りばしで叩きながら歌う「犬殺しの唄」が秀逸だった。

 べストセラーはないが、堅いファン層を持ち、多くの本を出してきた朝倉だったが、一年中カネには困っていたようだ。

 そんな朝倉から電話がかかってきたのは平成22年の春だった。歌舞伎町の「ルノアール」で会った朝倉はいきなり、「元木さん、600万貸してくれないか」というではないか。

 普段の朝倉ではない。追い詰められている。だが、年金暮らしの私に、600万なんてカネがあるはずはない。

 そんな私のところにまでカネを借りに来るのだから、よほど切羽詰まっているようだ。

 急くアサやんをなだめて、経緯を聞く。概要はこうだ。

 彼の家は湘南にある。昔は、別れたカミさんと子どもたちがいたが、今は一人暮らし。

 本は出すが初版は少なく、増刷もかからない。生活費にも事欠くことが多く、サラ金などで借りて、何とかやりくりしていたらしい。

 だが、サラ金の借金がたまりにたまって、600万にもなったそうだ。サラ金側は、借金のかたに自宅を取り、それを競売にかけて相殺するというのだ。

 古いとはいえ、アサやんがいうには、普通に売れば1千4~500万では売れるはずだそうだ。

 そこで、借金を返して家を守りたいというのである。

 よくもまあ600万もと思うが、今更仕方ない。某大手不動産屋にも相談したらしいが、700万ぐらいにしかならないといわれたらしい。

「家は手放しても、何百万かの現金が残ればいいか」と聞くと、それならありがたいという。

 相談する友人がいるから、少し時間をくれといって別れた。

 会社を経営している友人と、不動産屋をやっている友人に声をかけ、某日、相談にのってもらう。

 不動産屋の友人は、私が1,200万ぐらいで買ってあげてもいいといってくれる。

 いい土地なら、すぐに売れるから。

 そこで、彼に、朝倉の家を見てもらうことにした。数日後、電話があり、「家はまだ使えるが、そこに自動車で行くには、私有地を通らなければいけない。そこの地主が売ってくれればいいんだが」という。

 再び、友人3人で集まり、相談する。会社を経営している友人が知恵を出した。

競売に出したら、すぐにオレが1,200万で入札する。そうすれば、それ以上の値段で飛びついて来る業者がいるはずだ。

 たしか、入札は10月始めだったと思う。結果、物件は1,300万ぐらいで落札された。

 朝倉の手元には、6~700万の現金が残った。朝倉は「これでどこかに静かな家を借りて、執筆に専念できる」。そういって喜んだ。

 彼と付き合って初めてだろう、中野で、朝倉がおごってくれた。終わってカラオケにも誘ってくれたのだ。よほど嬉しかったのだろう。

 朝の3時頃だったか。私と友人に、朝倉が「ありがとう」といって頭を下げて見送ってくれた。

 それが朝倉を見た最後になった。

 神奈川県愛甲郡愛川町に古いアパートを借りた。そこから一度電話があった。その数日後、自宅で亡くなっているのを、大家が発見した。

 どうやら、酒に酔って帰宅した朝倉が、躓いたかして柱か何かに頭を強くぶつけ、昏倒して息絶えたらしい。12月9日、享年67。

 アサやんらしい死に方ではあるが、これからゆっくりという時に、無念だっただろう。別れた夜の、朝倉の笑顔が今でも忘れられない。

 今一人、忘れられない記者がいる。水谷喜彦である。私の先輩、杉山捷三と同じ年頃だった。出身も静岡で、水谷は名門・静岡高校。顔は知らなかったが、杉山も、“秀才”水谷の名は県下に鳴り響いていたという。

 母親一人に育てられ、幼い頃に、妹を失くしているそうだ。

 東京外語大に入り、インドネシア語を学び、8年で卒業して、好きだった競馬専門紙に勤めるのだから、少し変わったというより、かなり風変わりな人間である。

 その後、日刊ゲンダイを創刊するというので、競馬記者として出入りしていた。そこに外語大の後輩の女性がゲンダイに入って来る。

 後輩とは、後に、競馬騎手・吉永正人と結婚して、大宅壮一ノンフィクション賞を取る『気がつけば騎手の女房』を書く、吉永みち子である。

 水谷は、杉山との縁だろう、週現に記者として移り、私の班に所属する。

 お互い競馬好きだから、意気投合するのは早かった。だが、この水さん、かなり変わった人間だった。

 金銭欲は全くなく、本を読んで、酒が呑めればそれでいいのである。

 取材が終われば、5時ぐらいから、講談社から近い江戸川橋にある銭湯へ行くのだ。

 1時間ぐらい湯につかり、手ぬぐいをぶら下げて、当時、早稲田大学のグラウンド下にあった「まずい焼き鳥 水っぽい酒」と大書してある居酒屋へと繰り込むのである。

 彼は異常なネコ好きである。そこにも、丸々と太ったネコが、酔客の間をウロウロしていた。

 水さんは、酒を呑みながら、いつまでもネコとじゃれるのだ。つまみをやるから、ネコはなつくが、店は嫌がった。

 そこでたらふく呑んで、カネが許せば、新宿ゴールデン街に足を延ばす。

 水さんの好きな店はたいてい、女一人で子どもを抱えた曰くのある女性がやっているところだった。

 カウンターに座って、ニタニタと、女将の顔を眺めながら呑んでいると、中には、何でそんなにジロジロ見るんだと怒り出すのもいる。

 時には、蹴っ飛ばされて、水さんが転がり出る姿を何度も見た。それでも懲りないで、また顔を出す。

 酔い方は半端ではなかった。水さんが記者の家に呼ばれたことがあった。新婚で、入居したばかりの家だったそうだ。

 そこで水さんが大酩酊して、トイレと食器の洗い場を間違えて、小便をしてしまい、記者の奥さんが泣いて怒ったそうだ。

 後で本人が、やけに背の高い便器だと思ったとケロッとしていたという。

 酔うと、インドネシア語でブンガワンソロを原語で唄う。英語はぺらぺらだったが、記者としてはいてもいなくてもいいというタイプ。

 だが、誰からも愛されていた。

 一度、小室直樹(社会学者)と一緒に水さんが、近くの居酒屋で呑んでいた。小室がまだ有名になるだいぶ前である。

 2人して、酔っていてよくわからない英語で、何事かを論じ合っていたのを見て、なんだかわかないが、すごいと思ったことがあった。

 ある時、水さんが2週間ぐらい姿を見せなかったことがあった。自宅で亡くなっているのではないかと心配したが、ひょっこり顔を出した。

 どうしたのかと聞くと、言葉を濁した。

 後でわかったのだが、某夜、早稲田の路上でいつも通り酔って寝込んでしまったそうだ。そこへ警官が寄って来て、注意したそうだ。

 警官が大嫌いな水さんは、いきなり声をかけられたので、驚いて、足で蹴飛ばしたそうだ。

 それで、公務執行妨害か何かで逮捕され、講談社の隣にある大塚警察に留置されていた。水さんは、いくら聞かれても、週現の記者だとはいわなかった。検察へ行く時だろう。バスに乗って出る時に、私の姿が見えたことがあったそうだ。

 ひと言、私に声をかけてくれれば、何とかなったものを、完黙で通したそうである。

 水さんとは当然だが、競馬場でよく会った。片手にビールの缶を持ち、ニヤニヤして「元木ちゃん」と寄ってくる。

 馬券が当たるか外れるかにはあまり関心がないようだった。

 その日も、缶ビールを2本持っていて、私に1本くれた。とりとめのない話をして別れた。

 まだ私が編集長の時だったと記憶している。その日は会社に戻り、その後呑みに行った。

 翌日の午後だった。大塚警察だったと思うが、電話がかかってきた。

 水谷というのはそちらの記者かと聞くので、「そうだ」と答えた。

 水谷が、昨夜、原宿だったか、そちらの方面で、行倒れて亡くなっていたというのである。

「そんなバカな! 昨日、競馬場で会いましたよ」。警察は、洋服に、吉永みち子という名前のメモがあったので、連絡して確認してもらったという。

 原宿と水さんが結びつかない。だが、亡くなったことは事実であった。

 たしか、静岡から縁戚の人が来て、葬儀をやったと思う。記者たちも大勢参列したから、寂しいものではなかった。

 杉山が、大塚にあるアパートへ行ってみたら、十数匹のネコが出入りしていて、布団はネコが占拠していたという。

 奇人ではあったが、暖かい人だった。

 親しい記者の多くも今はいない。あの時代を一緒に駆け抜けて来た仲間のことを書き残すことは、後に残った者の義務ではないか。そう私は考えている。

 平成9年でピークを迎えた週刊誌は、平成という時代を通して部数を落とし続けた。

 週刊誌の役割は終わったという声も聞こえてくる。週刊誌が一番いい時代に編集長を務めていた私は果報者である。

 その後、多少の禍福はあったが、あの時の高揚感を味わえたことは、私の人生の宝物である。

 私の我儘を許容してくれた講談社に、多少きついことを書いたが、あの時代の記憶を少しでも書き留めておこうという意図からで、それ以外の他意はない。

 新聞、テレビ、出版も同様だが、社としての記録や記憶はあるが、個々の人間が、そこでどう生きたのか、何を考えたのかを記したものは驚くほど少ない。

 私のような、いち編集者が、自分のちっぽけな会社人生を、拙い文章で書き残すことなど、考え違いだと批判されるのは重々承知しているつもりである。

 だが、万に一人でも、こんなバカな人生を送った人間がいたのか、そう笑いとばしてくれる人がいれば、冥利に尽きるというものである。

(了)
(文中敬称略)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
 1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
 現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
 主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

連載
J-CASTの元木昌彦の深読み週刊誌
プレジデント・オンライン
『エルネオス』メディアを考える旅
『マガジンX』元木昌彦の一刀両断
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