2024年04月18日( 木 )

平成挽歌―いち雑誌編集者の懺悔録(17)

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 私には愛社精神がない。大学は早稲田だが愛校精神など全くない。

 だが、自分が携わってきた週刊現代、フライデー、廃刊になってしまった月刊現代、ジャニー喜多川の件ですっ飛ばされた婦人倶楽部(廃刊)も好きである。愛しているといってもいい。

 週現編集長を辞するまでは、講談社という組織に属しているサラリーマンだと考えたことはほとんどなかった。

 一国一城の主とはいわないが、業績のいい零細企業の社長ぐらいには思っていた。

 一時期、週現にテレビ欄を導入したことがあった。当時、自前ではできないので某社から買うのだが、完全なものではなく穴あき状態である。それをテレビ局に取材して埋めていくのだが、これが大変な作業だった。

 以前から私は、テレビという巨大メディアをチェックするのは週刊誌の重要な役割だと考えていた。

 これを機に、各局の報道番組を録画し、発言をチェックしてみようと考えた。問題発言があれば、発言者に問い質し、そのやりとりを週現に掲載する。

 知り合いの編プロ社長に相談すると、やってもいいという。録画する機材の代金は入れずに、テレビ欄の購入代と空欄を取材する人間、録画された報道番組を見てチェックし、相手にぶつける取材記者たちの人件費を含めて、年間1億円はかかったと思うが、全て私の一存で決めた。

 結局この企画は、読者からの反応がイマイチのわりに、費用が予想を超えて膨らみ、2年足らずで撤退を余儀なくされた。

 私の数多くある失敗の一例だが、かなりのカネを食いつぶしたため、少しは穴埋めをしようと、社の業務部の同期に相談した。

 私が「凸版印刷に頼んで、印刷代を少し安くしてくれるよう頼んでくれないか」といった。同期は「わかった、いってみよう」といってくれた。

 どういう話し合いになったのか詳らかなことはわからないが、凸版印刷は「年間1億円」ほど値引いてくれたと記憶している。その代わり、これから出す写真集などの印刷は必ず凸版でやるという条件は付いたが、当時の印刷屋は太っ腹だった。

 それ以外でも、広告にいわれて、週現の屋外広告を街中、高速道路から見えるビルの上などに設置した。今でも残っているところがいくつかあるようだ。この費用もバカにならなかった。

 カネの話になったついでだから、“食”についても触れておこう。私はグルメなどではないが、寿司と蕎麦とふぐが好きだ。

 中でもふぐは、9月の声を聞くと無性に食べたくなった。週に3日は取材にかこつけてふぐを食べに行っていた。

 企業の広報から食事に誘われる時、どこがいいかと聞かれれば、ふぐがいいと答えた。おかげで、東京のふぐ屋へはほとんど行った。

 よく行ったのは築地の「ふく源」。ここは全盛期の小佐野賢治が横柄に、「ビールを出せ」といったので、「ふぐ屋にビールなど置いてないと叩き出してやった」というエピソードを持つ豪快なお婆ちゃんがいて、彼女の話を聞くだけでも楽しかった。

 九段の「ふく源」にもいった。築地「やまもと」、人形町「かねまん」、麻布十番の「ふぐ武」……。

 大阪で府警の刑事に連れていってもらった汚いふぐ屋では、丼一杯の肝を堪能した。八代目坂東三津五郎の気持ちがわかった。

 ここの主人は客に出す前に、自分で肝を食べてみる。1時間何ともなかったら客に出すが、これまで何十回も救急車で運ばれたと、その刑事が話してくれた。

 六本木の裏にある「味満ん」は、最初、何も知らないで、友人の作家とフラッと入った。さほどきれいな店ではなかったが、品書きにはカニとふぐとしか書いてない。

 たしかにうまいが、さほどはとるまいと、「お勘定」というと、「2人で12万」だというではないか。持ち合わせがないというと、「うちはツケはしてない」。もちろんカードなど問題外。

 有り金を全部出して、「明日必ず持ってくる」と拝み倒して何とか帰してもらった。翌日、払いに行くと、「これからはツケでもいい」と、主人が笑っていった。

 その頃食べ過ぎたせいか、この頃は、秋風が吹いても、ふぐを以前ほど食べたいと思わなくなったが、食べたいときは浅草の「三浦屋」へ行く。ここはリーズナブルでうまい。

 閑話休題。週現編集部は社内から「あそこは講談社ではない」といわれ、治外法権部署だと前に書いたが、私の編集長時代は特にそうだったようだ。

 クレームを付けに来た他部署の役員が、壁伝いに来て、私ではなく鈴木俊男役員に耳打ちして、また壁伝いに帰っていった。

 私は独裁者ではなかったが、雑誌は編集長のものだという“信念”は強く持っていた。

 そんな私に対して、社の上層部がどう考えているのかを思い知らされることがあった。

 講談社には「御前会議」というのが毎年、年末にある。新年号会議のことだ。雑誌の編集長や単行本の部長が、社長を中央に役員がズラッと並んでいる前で、来年の編集方針を説明する場である。

 売れて儲かっている部署はさほどでもないが、そうでない雑誌や単行本の編集長には針の筵である。

 大昔は、「お前は何を考えているんだ。そんなことで売れると思うか」と、怒った役員が茶碗を投げつけたこともあったと聞いた。

 たしか週現編集長4年目の新年号会議だったと記憶している。編集方針には何の意見も出なかったが、次のこの言葉に一斉に役員たちが反応した。

 「相談できる弁護士を、週刊現代独自で契約したいと考えている」

 講談社に顧問弁護士は二人しかいない。彼らは他の弁護士活動もやっているため多忙で、記事についての相談をしたいと思っても、なかなかつかまらないことが多かった。

 講談社始まって以来最多の50件を超す訴訟も抱えていた。当時は、週現、フライデーのある部署は一局といわれ、他にも月刊現代、VIEWSなどがあった

 法務担当の人間もいたが、多くは一局出身の素人である。局全体の専属弁護士が必要だと考えるのは、私には当然のことだと思っていた。

 だが、予想外の反発があった。役員の一人が、「君は、会社の顧問弁護士を無視して、これ以上、勝手なことをやる気なのか!」と口火を切った。

 それでなくとも、こいつには告訴が多いのに、弁護士まで抱えて、これまで以上に自分勝手にやろうとしていると、曲解されてしまったのである。

 「そんなことはありません。私が考えているのは……」と、説明しようとする私の声は、役員たちの怒声でかき消されてしまった。

 野間佐和子社長は、何もいわずにじっとその騒ぎを見ていた。

 これは私の勝手な想像だが、後で側近から、「元木のやり方は自分勝手過ぎる。何とかしないといけない」とでも吹き込まれたのかもしれない。

 社長がどう思ったのかはわからないが、数年後に子会社「三推社(現在の講談社ビーシー)」に飛ばされた時、中澤義彦役員からこう聞かされた。

 「社長はお前のことが嫌いなんだ」

 私には社長から嫌われる理由がさっぱりわからなかった。

 ヘア・ヌードが話題の頃、社内の人間から、「ヘア・ヌードに社長が怒っている」といわれたことがあった。

 そんなバカなとは思ったが、社長も女性だから不快感を持つのは無理ないのかもしれない。ある時、社長に聞いたことがあった。

 「もしヘア・ヌードがお嫌いでしたら、いつでも止めますからいってください」

 社長は、「私もきれいなヌードは好きですよ。気にしないでください」といってくれたのである。

 だが、社長の周囲には、私を嫌っている人間が多かったのは事実だと思う。

 この新年号会議がその始まりだったとすれば、彼らの私に対する“憎悪”を決定づけたのは、麻原彰晃の自白調書事件だったことは間違いない。

 オウム事件最大のトリックスターは横山昭二弁護士(当時67歳)だった。ヨコベンと称され、報道陣に向かって「バカモーン」と怒鳴る姿がテレビで何度も流された。

 この身も凍る凶悪事件の中で、唯一の息抜き的存在だった。麻原は、かつて横山が弁護を務めた暴力団員の紹介で、大阪弁護士会所属の横山を私選弁護人として選任した。

 弁護士としての能力よりも、その特異なキャラクターが受けて、彼はオウム事件の主役の一人になった。何よりも、麻原の肉声を知ることができる唯一の人間であった。

 私は、オウム取材班に、ヨコベンを“軟禁”するよう指示した。

 彼の家に朝迎えに行き、編集部の応接に1日いてもらって、夜、再び家に送っていった。

 素顔は人のいいオジイチャンである。日がなもぐもぐ食べたり、昼寝をして過ごしていた。

 初公判の前日、麻原から突然解任されてしまうが、公判が延期になると、麻原は彼を再任したりと、2人の関係は、私にもよくわからないものだった。

 ある時、取材班の人間から、ヨコベンと話をしてくれないかと頼まれた。30分程度でいいから、彼の関心を引いていてくれというのである。

 その間に、ヨコベンがいつも横に置いている鞄から書類を抜き出し、コピーするという。難しい“仕事”だったが無事終えた。後で、首尾を聞いたが、あまりネタになりそうなブツはなかったようだった。

 そうこうしているうちに、12月2日に、再び麻原から突然、解任されてしまった。これにはさすがのヨコベンもブチ切れた。

 週現の平成7年12月23日号「横山昭二弁護士独占手記 大バカモン、麻原彰晃は死刑じゃ!」で、ヨコベンはこう語っている。

 「松本(智津夫=麻原の本名=筆者注)は大バカモンです。私が『全面無罪論』を撤回すれば、あとは有罪しかありません。そうすると、松本は殺人集団の指揮を執っていたことになり、死刑です」

 さらに麻原は、こんなことを彼に頼んでいたというのだ。

 「私に、『先生、刑を逃れる方法はありませんか。心神喪失とか心神耗弱とか、犯罪を犯しても処罰されないで済む方法を研究してください』と依頼していたんです。(中略)
 もう、私がそんなことを話したら、裁判官は有罪の心証をもっちゃいますよ。しかも、松本がいうようなことは、デッタラメ。いくら研究したって、何の意味もないわけです。(心神喪失、心神耗弱の主張が)通るわけ無いでしょう」

 当時、マスメディアは彼の話を真摯に聞こうとしなかった。ヨコベンのいうことなど信頼性に足るものではないと考えていたのだろう。

 麻原は、公判の始めは、自分の主張を自分の言葉で訴えていたのに、途中から、拘禁性かもしれないが、精神的に不安定になっていった。

 麻原は死刑執行前、東京拘置所の職員に遺体や遺品の引き受け人について聞かれた時、「ちょっと待って」といってしばらく黙った後、四女と答えたという。職員が四女の名前を出して確認したところ、うなずいたという報道もあった。

 ヨコベンの話が事実なら、麻原の意識はかすかながらあったのかもしれない。それさえも確認せずに死刑を執行してしまったのは、後世に悔いを残すことになりはしないか。

 ヨコベンはさらに、重要なことを話していた。

 「警察・検察側は、松本の自白調書はないといっておりますけど、あれも実は複数、あるんです」

 麻原がすでに自供している? だが、警察・検察側はそれまで、「自白調書はない」とメディアに対して頑強に否定してきていた。

 もし自白調書があれば、麻原の裁判の行方を左右するものになり得るかもしれない。

 オウム取材班は、ヨコベンが調書のコピーを持っているのではないかと考え、ヨコベンに質した。彼は意外なほどあっさりと認め、コピーを渡してくれたのだ。

 彼の、麻原に裏切られたという激しい怒りと、オウム取材班との信頼関係が築きあげられていたことが、このスクープに結實したのである。

 新年合併号の校了が迫っていた。刷り部数は150万部。どうしても欲しいスクープだった。

 日本のメディアの歴史の中で、公判前に自白調書が表に出たことはない。特に、検察の反応は厳しいものになることが予想された。

 鈴木役員に報告し、顧問弁護士2人に講談社に来てもらった。河上和雄は元東京地検特捜部長、いわゆるヤメ検である。もう一人は的場徹弁護士。的場弁護士は、東京・九段に法律事務所を持つ気心の知れた人だが、河上弁護士は大物を気取り上から目線で、私は苦手だった。

 案の定、河上弁護士はハナから「そんなものを出してはいかん」といったきり、取りつく島もなかった。

 的場弁護士も、「難しいだろうな」という反応だったと記憶している。

 顧問弁護士の判断は天の声である。私も鈴木役員も、そういわれては頷かざるを得なかった。

 かくして、大スクープはボツになり、自白調書は机の中に放り込まれることになった。

 だが、諦めきれなかった。新聞の中には、これを手に入れているところがあるはずだ。現に、朝日新聞は調書を読んでいたのではないかと思わせる、麻原に関する記事が見受けられた。

 しかし、新聞、テレビは、手に入れたとしても、出すことはできない。そんなことをすれば、警察、検察から手ひどい報復を受けることは間違いない。記者クラブ出入り禁止では済まないだろうし、彼らにそんな勇気があるとは思えない。

 週現ならできる。もし、このことで逮捕されても、堂々と大手を振ってお縄になってやる。

 だが、週刊誌といえど、誰にも知られずに掲載することはできない。河上弁護士はともかく社の上の了解をとらなくてはどうにもならない。

 その日の夕方、講談社主催のパーティーが都心のホテルである。そこに浜田博信副社長(まだ専務だったかもしれないが、ナンバー2の実力者)たちも出席するはずだった。

 そこで直談判してみようと考えた。パーティーには河上弁護士も出席していた。私が浜田に話していると割り込んできて、「そんなものを出したら検察は黙っていない。社長が呼び出されることになる」といった。

 万事休す。再び編集部に戻って椅子にへたり込む。〆切が迫っていた。

 的場弁護士の家に電話する。運よく帰宅していた。彼に、「なんとか掲載する大義名分を考えてくれませんか」と受話器に頭を下げながらいった。

 電話の向こうから聞こえるのはため息ばかり。「時間をくれ」といわれ、切れた。

 私も必死に考えるが、空っぽの脳みそでは何の案も浮かばない。

 午前1時か2時頃だった。的場弁護士から電話が入る。弁護士が、「一連のオウム関連の首謀者、共犯者たちのほとんどが逮捕、拘留されたのに、破防法をいまさらなぜ、宗教法人・オウム真理教に適用するのか、という問題定義として、これを出すというのはどうか」と提案してくれた。

 政府は、12月14日に破防法の団体規制適用にゴーサインを出していた。だが、法学者からも憲法違反という指摘もあり、これまで一度も適用されたことのない破防法を適用するからには、国民に十分な情報を出すべきなのに、警察・検察は徹底的な秘密主義に固執し、麻原の自白調書はないとウソをついてきたではないか。

 この自白調書掲載は、その警察・検察のあり方に対する「問題提起」である。

 堂々たる大義名分である。もはや夜明け近かったが、浜田の自宅へ電話をした。電話口で必死に、これを出す大義名分を話した。

 浜田は、「どうしてもやるのか」と聞いた。私は「はい」と答えた。電話が切れた。

 早速、長いリードを書いて、担当者に渡した。

 12月20日、週現が発売されたが、初速はよくなかった。だが、それは嵐の前の静けさだった。

 翌日、東京地検が「自白調書を渡したのは横山弁護士だ」として、自宅マンションを家宅捜索し、事情聴取を始めたとニュースが流れると、あっという間に週現は完売した。

 その後、検察は、私が予想もしなかった悪辣な手段を使って、こちらに刃を向けてきた。

 あろうことか、麻原彰晃被告(当時)の名を使って、私を告訴してきたのである。

 情報を漏えいされた当事者のプライバシーや人権を保護する目的でつくられた「秘密漏えい罪」は親告罪だ。そのため麻原の名を使わざるを得なかったのだが、そこまでやるとは想定外だった。検察の執念を見せられた思いがした。

 なぜこれほどまでに検察が躍起になったのか。自白調書をすっぱ抜かれたこともさることながら、自白の中身がすべて麻原の自己弁護だったためだと、私は思っている。

 絶対ないといい張っていた自白調書を公開されたうえに、麻原の身勝手ないい分ばかりでは、警察・検察のメンツは丸つぶれであった。

 東京地検から私に電話がかかってきた。「情報源を教えてほしい。自白調書のコピーを提出して頂きたい」。私は拒否した。

 それからも何度か電話があった。河上弁護士からは「検察は本気だ」という連絡が、上の方に入っていた。

 彼らが本気である以上、こちらも本気でなければ対抗できない。編集部員にはこういった。

 「地検のガサ入れがあるかもしれない。各自、机やロッカーのものを整理して、見られて困るものは持ち帰るか、捨ててくれ」

 検察の動きは急だった。河上弁護士は、まるで東京地検の代弁者のように、逐一、向こう側の情報を講談社の上に伝えてきた。

 「自白調書のコピーをあくまで提出しないといい張るのなら、週刊現代の編集幹部だけではなく、講談社の経理にもガサをかけるといっている」

 検察は、横山弁護士に週現は1,000万円を払ったといっているという。彼には自白調書の件では謝礼を払っていない。

 編集部に毎日来てもらったり、対談、インタビューに出てもらった謝礼は払っているが、全てを合わせても1,000万円などになりはしない。

 そのことは社の上にも伝えてあった。東京地検の単なる脅しに過ぎない。

 だが、河上弁護士の“現場中継”は緊迫の度を増していた。浜田以下、関係者が応接に集められ、河上弁護士からの電話連絡を聞かされる。

 私は、「横山弁護士への謝礼の部分だけを検察に渡すというのはできないのか」と経理担当役員に聞いた。

 現在ほどではないが、講談社も電算化が進んでいて、彼がいうには、「そこだけ切り取って渡すということはできない。検察が来れば、すべての経理の記録は持って行かれる。会社としては、それだけは絶対避けたい」。河上弁護士から、「これから地検がそっちへ向かう」という電話があり、浜田が決断した。

 「業務命令だ。コピーを渡せ」

 私は無言のまま退席した。

 編集部に戻って、このことを話した。

 夜、講談社の前には報道陣が群がった。検察の人間には、講談社の裏手にある別館の応接に来てもらった。コピーを渡し、言葉は交わさなかった。取材源は聞かなかった。

 編集部に戻って、メディアに向けて事の一部始終を書いたFAXをしようと思った。

 麻原の名を騙って私を告訴し、編集部のガサ入れまでは仕方ないと思っていたが、講談社の経理にガサをかけるという東京地検のやり方は、言論の自由を踏みにじる行為で、絶対許すことはできない。

 しかし、上からの伝言を部員が伝えにきた。「今回のことはメディアに話してはならない」という内容だった。

 そこで私は切れた。まだ社内に上の連中が残っているはずだ。どこの部屋だか忘れたが、役員連中が集まって談笑していた。酒も置かれていたかもしれない。

 私は、その部屋に入り、こう怒鳴った。

 「あんたたちが何といおうと、新聞、テレビに今回のことについてのFAXは流す。そうしなければ、週刊現代はメディアとしての存在理由を失ってしまう」

 怒りに震えて何をしゃべったかほとんど覚えていない。もっとひどい言葉を使ったかもしれないが、概ねこんなことだったと思う。

 彼らは茫然としていた。部下にここまでいわれるとは思っていなかったはずだ。

 編集部に戻りメディア用の文章を書き、各メディアに送ってくれるよう頼んで、飲みに出た。

 午前2時を過ぎていただろう。クリスマスではなかったか。池袋の安い居酒屋に入り、苦い焼酎を呷った。

 週刊現代が検察に屈した記念すべき夜だった。私にとっても激動の年だった平成9年が過ぎていった。

(文中敬称略=続く)

<プロフィール>
元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任。講談社を定年後に市民メディア『オーマイニュース』編集長・社長。
現在は『インターネット報道協会』代表理事。元上智大学、明治学院大学、大正大学などで非常勤講師。
主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)『現代の“見えざる手”』(人間の科学社新社)などがある。

連載
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