2024年05月06日( 月 )

九州古代史を思う~「倭奴国」から「日本国」へ(3)

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「徐福伝説」について

 私は「邪馬壹国論争」を繰り返し読むうちに、秦の始皇帝と徐福渡来伝説が、倭奴国の形成に重要な影響を与えていると考えるに至りました。
 徐福については、日本ではいまだ伝説中の人物とされています。しかしながら、中国ではれっきとした史実上の人物として登場し、その存在が認められているのに、日本においては公に取り上げず、ただの伝説として素知らぬ振りをしている。難しいでしょうけれど、目を向けていただきたいものです。

 紀元前221年、秦始皇帝は近隣の7つの国を平定し、秦の国を建国しました。彼の治世のことは中国歴史家によって現在も研究が進められていますが、記録によりますと数々の暴君ぶりが記述されています。
 万里の長城・始皇帝陵の建設などに多くの人民を奴隷化し従事させた事実が、兵馬俑近郊の墓地から発見されています。兵馬俑は一辺400mのピラミッド型で形成されていますが、いまだに始皇帝の墓は発見されていません。
 始皇帝は不老不死の薬を求め、諸々を探求し、一説によると水銀を不死の薬として飲用し、その中毒に侵され、紀元前210年に50才で死亡したと史実は記しています。

 徐福は秦の始皇帝の暴政から逃れて、東方海上の緑豊かな島国に理想郷をつくることを意図して調査しました。大集団の食料を得るためには広い平野が必要であること、温暖で冬季の季節風を遮るための山脈があること、稲作に絶対欠かせない「水」が豊富であること。これらの諸事項を満足させられる地を見つけだすには、事前に何度も調査を行う必要があることが解ると思います。

 日本にたどり着いた徐福は有明海に入り、筑後川を遡って佐賀県諸富町寺井津の「浮盃(ぶばい)」に上陸し、金立山にて霊薬を探し求めました。そこで発見したのが「フロフキ」という薬草であったと伝えられています。「フロウフシ→フロフロシ→フロフキ」と不老不死が訛った物ととれます。
フロフキは実在しています。カンアオイという希少な薬草が佐賀でフロフキと呼ばれており、全草や根を陰干しにして煎じて飲めば、胃薬・頭痛・のぼせに効くといわれています。

「有明海~吉野ヶ里」

yosinogari 有明海は干満の差が大きく、広大な干潟地域があり、干潮時には特有の魚類が生息しています。なかでも「ムツゴロウ」「ハゼクチ」「ワラスボ」「エツ」の4種類の魚は、中国の沿岸と日本ではここ有明海のみにしか生息していません。
 ここで特記したいのが、これらの内「エツ」を除く3種類の魚に吸盤があることです。徐福は始皇帝に上申して「童男女3,000人・百工の職人・五穀の種」を携え、船を建造し出航する許可を得ます。船の知識をお持ちの方ならご存知の通り、船を海面に浮かべているだけで「フジツボ」や「カキ」などが付着します。徐福の渡来時に同じようなことが起こり、これらの魚が有明海に入り込んだのではないでしょうか。

 有明海の北部に広がる筑紫平野は、九州最大の穀倉地帯で、近畿奈良盆地の約3倍の耕地面積を有します。筑紫平野北部には、背振山脈が東西に広がって北風を遮る役目をし、その前面には、南北10数キロにわたる平野が広がり、そこを流れる九州最大の河川、筑後川が有明海に注いでいます。
 このように稲作農耕に最適な条件が揃った佐賀筑紫平野の中央に位置するのが、「吉野ヶ里」です。
 「吉野ヶ里」は、佐賀県神埼郡の旧神埼町・旧三田川町・旧東背振村にまたがる、67ヘクタールにおよぶ広大な遺跡です。工業団地造成計画にともなう埋蔵文化財調査中に遺跡が発見されました。所有者によれば、この近辺は以前墳丘墓で、甕棺を堀りだし、なかから鏡・剣・管玉などが多数出てきたことを語られています。他にも多くの方々が、土器の破片などが散らばっていたと語っています。
 これまで開発されず、2,000年もの間そのままの地形で残されていたことは幸いです。今後じっくりと、とくに姫神社と呼ばれる日吉神社の学問的調査が行われることを期待します。

 私は、こういった徐福伝説の謎解きこそが、日本の古代史の謎解きに繋がる重要なことではないだろうかと、以前から考えてきました。

(つづく)
【古代九州史家 黒木 善弘】

 
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