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2017年08月16日 13:02

日航ジャンボ機墜落の真相を解明せよ 植草一秀氏ブログ「知られざる真実」 

 NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。今回は、いまだに謎が多いとされる日航ジャンボ機墜落事件の真相究明を進めるべきとした、8月15日付の記事を紹介する。


『日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』(河出書房新社・最新刊)

35年前の日航ジャンボ機墜落事件については、多くの関係者などが強い疑問を持ち、さまざまな真相究明の努力を注がれてきた。しかし、本格的な事故調査は、実は行われていない。

事故=事件が発生したのは1985年8月12日。羽田空港1800発大阪伊丹空港行き日本航空123便が18時56分に、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。

事故から2年後の1987年6月19日に航空事故調査委員会が、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後のボーイング社修理が不適切であったために圧力隔壁が破損したことが事故原因であるとの報告書を公表して、ふたを閉じられたままになっている。

しかし、圧力隔壁が破損したのなら、機内与圧が急激に低下し、白い水蒸気のような気体が充満するはずであるが、生存者の落合由美氏は、

「白い霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。」

と証言しており、圧力隔壁破損の他の航空機事故の状況とは明確に異なっている。また、圧力隔壁が破損して機体に穴が開いたのなら、機内の気圧が急低下して、ほとんどの乗客、荷物が機体の外に吸い出されたはずである。

実際には、外部から何らかの衝撃が加えられて尾翼が破損し、機体の操縦が不能になったのだと考えられる。

当時の日航DC10機に乗務されていた機関士の方から連絡があり、その方の推察内容を教えていだいた。また、私が8月12日付記事に記述した内容に、一部誤りがあったので、この点も訂正させていただく。

日航ジャンボ機123便が操縦不能に陥り、緊急着陸を試みようとした空港は調布ではなく、米軍横田基地である。横田基地に緊急着陸していれば、すべての乗客の生命が守られた可能性が高い。しかし、同機は横田基地への着陸を阻止されて、群馬県山中に誘導された。そして、御巣鷹山山中に胴体着陸を試みたのだと推察される。
問題は、墜落場所が早期に確認されたにもかかわらず、人命救助措置がまったく取られなかったことである。

「123便」に乗務したグループに所属していた元日航客室乗務員、青山透子さんの著書「日航123便 あの日の記憶 天空の星たちへ」(マガジンランド、2010年4月刊)が注目する1995年8月27日付「星条旗新聞」(Stars and Stripes)の、事故当時に横田基地に配属されていた米空軍の輸送機U130のパイロット、マイケル・アントヌッチ中尉の証言がある。
この証言を米田憲司氏の著書「御巣鷹の謎を追う」(宝島SUGOI文庫)から紹介する。

「当機は、陽が長くなった夏の夕日が沈みかけていたころ、機首を北北西に進路を取った。午後7時15分、航空機関士が1万フィート付近で雲の下に煙のようなものが見えるのを発見したので、ゆっくり左に旋回し、そちらへ方向を向けた。御巣鷹山の周辺はとても起伏が多かった。地表からおよそ2000フィートまで降下する許可を得た。墜落機残骸を発見したのは、あたりはだんだんと暗くなり始めていた時だった。山の斜面は大規模な森林火災となり、黒煙が上がり、空を覆っていた。時刻は7時20分だった。

当機の指揮官、ジョン・グリフィンは、墜落機残骸の上空2000フィートで旋回していた。私は地上との高度をモニターし、横田までの位置関係を確認した。事故現場から横田までの緯度、経度、方向と距離を連絡した。墜落後、およそ20分で当局は墜落機残骸の位置をつかんでいたのだ。横田管制から、我々の現在地から約40マイルの厚木基地から、米海兵隊が救難に向かう準備をしていることを聞いた。1時間で到着できただろう。」

「当機は8時30分まで旋回を続けた。そのとき、海兵隊のヘリコプターが救助に向かっているので方向を知りたがっている、といわれたので、墜落現場までの方位を教え、当機のレーダーで地上から空中までを探してみた。8時50分までに救援ヘリのライトを視認できた。ヘリは偵察のため降下中だった。

午後9時5分に、煙と炎がひどくてとても着陸できないと海兵隊が連絡してきた。われわれに、司令部に連絡してくれと頼んできた。私が司令部に連絡を取った。

将校は『直ちに基地へ帰還せよ』『日本側が向かっている』といったので『司令部、海兵隊は救助続行を希望している』といったが、『繰り返す。即刻、基地に帰還せよ。海兵隊も同様』と命令された。私は『了解。基地に帰還する』と応答した。」

C130は午後9時20分に、最初の日本の飛行機が現れたのを確認して現場を引き揚げた。

ジャンボ機の墜落現場は米軍機によって墜落して20分後には確認されていた。そして、墜落から2時間後には米軍救援ヘリが現場に到着している。ところが、最初の日本のヘリコプターが現場にやっと到着したのは、翌日の午前4時40分。午前7時15分になって日本の捜索隊は、自衛隊のレンジャー部隊をヘリコプターで吊り下ろすことを決断した。
米軍ヘリコプターによる救援活動が許可されなかった時点から11時間も経っていた。

情報を寄せてくださった元日航機関士の方は、当初の一連の動きから、「米軍の戦闘機説」をとられているとのことだ。

米軍演習の標的機または自衛隊の標的機、ある地対空ミサイルなどの誤射により日航ジャンボ機の尾翼が破損し、ジャンボ機が操縦不能に陥った。ジャンボ機は横田基地に着陸しようとしたが、真相発覚を阻止する目的で同機は横田基地に着陸できず、群馬県山中に誘導されて墜落した。
現場は墜落から20分後に確認されたが、翌朝7時まで救援活動が行われなかった。

確定できていない部分が残るが、全体像はこれに近いのではないか。闇に葬らずに真相を解明する必要がある。

※続きは8月15日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第1820号「日航ジャンボ機123便墜落の黒い霧」で。


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