2024年03月29日( 金 )

中内ダイエーなくして、福岡がここまで発展することはなかった(16)~中内氏の夢の跡・新神戸オリエンタルシティ

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 同シリーズではこれまで、ダイエーの創業者である中内功氏の足跡や功績を振り返り、同氏がいかに現在の福岡の都市形成において数々の多大な貢献をしてきたかについて触れてきた。ここではシリーズの締めくくりとして「中内氏の夢の跡」と題して、中内氏が神戸と福岡の2つの都市で手がけた複合商業施設の“今”を見ていこう。

新幹線・新神戸駅前に位置する複合商業施設

 新神戸駅前にそびえる「新神戸オリエンタルシティ」

 兵庫県神戸市中央区にある、ホテルと専門店街と劇場とが一体となった複合商業施設「新神戸オリエンタルシティ」。1988年に開業した同施設は地上37階・地下3階からなり、現在、「ANAクラウンプラザホテル神戸」と「新神戸オリエンタルアベニュー」「新神戸オリエンタル劇場」の3つの施設で構成されている。
 ちょうど中内氏が福岡・地行浜における「ホークスタウン」開発前に手がけたことや、異なる機能・特性を備えた3つの施設(ホークスタウンの場合は、球場、ホテル、商業施設)で構成されている類似性から考えて、この新神戸での開発事例が、福岡での開発のモデルケースとなったといっても過言ではあるまい。

 同地にはもともと「神戸市立中央市民病院」(現・神戸市立医療センター中央市民病院)があったのだが、1981年3月に同院がポートアイランドへ移転。その跡地を再開発するにあたって、中心人物となったのが、当時ダイエーの社長を務めていた中内氏だった。

 中内氏は、自らの故郷であり、強い思い入れのある神戸市の玄関口である新神戸駅前にふさわしい施設づくりを検討。「神戸を訪れた人にとって、至極便利な位置にあるホテルや劇場」「神戸を訪れた人にとって、至極便利な神戸での滞在が可能となる神戸の魅力を凝縮した商業施設」「近隣の住民の生活を便利にする商業施設」「新神戸周辺広域の核となる大規模な商業施設」――というコンセプトの下、複合施設の開発を進めていった。そうして、ホテルと専門店街、劇場が集約され、その3施設のなかに神戸の魅力が凝縮された「新神戸オリエンタルシティ」が86年4月に着工。88年9月に開業となった。開業当初の3施設の名称は、それぞれ「新神戸オリエンタルホテル」(現・ANAクラウンプラザホテル神戸)、「オリエンタルパークアベニュー」(現・新神戸オリエンタルアベニュー)、「新神戸オリエンタル劇場」。
 当時、地上37階建ての同施設は関西一の高層建築物として名を馳せ、新神戸駅前で圧倒的な存在感を放っていた。中内氏がこれだけの施設を開業にまで漕ぎ着けることができたのは、ちょうどバブル期真っ只中という時代背景に加え、官民一体で開発事業を進めてきたこと、そして何より、中内氏自身の『故郷・神戸に錦を飾りたい』という強い思い入れがあったからに他ならない。そして中内氏がこの神戸での大きな成功体験を引っ提げて、その後の福岡・地行浜での開発に臨んだであろうことは、想像に難くない。

 こうして、華々しいスタートとともに、順調な滑り出しを見せたかに思えた「新神戸オリエンタルシティ」。だが、残念ながら、その繁栄はあまり長くは続かなかった。
 その原因は、バブル崩壊後に訪れた、俗に“失われた10年”といわれる「平成不況」と、95年1月に発生した「阪神・淡路大震災」。これにより、母体となるダイエーの経営が深刻なダメージを受けただけでなく、同施設においても入居テナントが次々と撤退。各フロアの至るところが空きテナントだらけになっていった。こうして、テナントの減った施設からは客足が落ち込み、落ち込んだ客足がさらにテナントを撤退させていくという、悪夢のような負のスパイラルに――。もはや商業施設として機能しなくなるほどにまで、追い込まれてしまった。

 その後、ダイエーが産業再生機構の支援を受けての再建を行うにあたり、2004年2月、「新神戸オリエンタルシティ」が当時所有していた(株)福岡ドームからモルガン・スタンレーに売却され、ついにダイエーの手から離れることに――。かつてのダイエーグループの名残りは、もはや地下3階のスーパー「グルメシティ新神戸店」と、地下1階のパチンコ「PANDORA 新神戸店」(06年にダイエーグループを離脱)のみとなった。
 売却後、施設を運営する法人「新神戸オリエンタルホテル」が設立され、全面的な改装を実施。一時期は景気回復も追い風となって、商業施設のテナントはほぼ埋まり、88年の開業当初のコンセプトや雰囲気を、少しずつ取り戻しつつあった。

 そして、また時代が流れた――。

悪夢再来でゴーストタウン化した現状

 「新神戸オリエンタルシティ」の現在の様子はどうだろうか――。実際に現地に足を運んでみた。

 新幹線・新神戸駅に到着すると、ホームからでも「新神戸オリエンタルシティ」の姿を目にすることができる。ただし、誕生当時は関西一の高層建造物であった同施設ではあるが、時代が流れ、今ではすぐ近くに「神戸芸術センター」(08年完成)やタワーマンション「ジークレフ新神戸タワー」(09年完成)など同程度の高さの建造物が立ち並んでおり、かつてのような圧倒的な存在感は薄れているように思われる。
 同施設と新幹線・新神戸駅とは、ペデストリアンデッキと地下連絡通路でつながっているほか、神戸市営地下鉄・北神急行電鉄の新神戸駅とも地下連絡通路を通じて接続。また、同施設のすぐ隣には「神戸布引ロープウェイ」の山麓駅があり、「新神戸オリエンタルシティ」1階部分から連絡通路が伸びている。周辺からの交通アクセスの利便性は、なかなか良好といった印象だ。

 閑散とした「新神戸オリエンタルアベニュー」

 だが、歩を進め、一歩足を踏み入れて施設内の光景を目の当たりにすると、その様子に愕然とさせられた。
 まず、人の気配がほとんど感じられない――。いくら平日とはいえ、アクセスも悪くない商業施設の内部に、人通りがほとんどないのである。新幹線・新神戸駅からペデストリアンデッキを通って施設内に入るとちょうど3階部分となり、そこから1階部分にかけて大きな吹き抜けとエスカレーターでつながれた開放的な空間が広がっているのだが、確認できる人影はごく数人。しかも、施設内で立ち止まることなく、エスカレーターを通じて素通りしていくのみ。
 それもそのはず、現在の「新神戸オリエンタルアベニュー」は商業施設であるにもかかわらず、テナントの多くがもぬけの殻状態。わずかに入居しているテナントにも店員以外の人の姿はほぼ見られず、閑古鳥が鳴いている。吹き抜けに面したエリアを中心にいくつかの飲食店があるほかは、数店のファッション店や雑貨店があるのみ。このような有り様では、自然と客足も遠のこうというものだ。アベニューの地上部分1~3階はこのような惨状で、地下1階・2階部分は「改装中」として足を踏み入れることができず。残りは、地下3階にスーパー「グルメシティ新神戸店」と100円ショップが入居しているぐらいだ。このスーパーは、地下3階部分が地下鉄駅と直結しているため、周辺住民にとっては会社帰りなどに立ち寄って買い物をしていくには重宝するかもしれない。ただし、スーパーの売り場面積もそれほど広いものではなく、施設全体の賑わい創出を牽引するには、少々荷が重すぎる印象だ。なお、ダイエー時代のもう1つの名残りだった地下1階のパチンコ「PANDORA 新神戸店」は、今年5月6日をもって閉店となっていた。

 空きテナントが目立ち、もはやゴーストタウン

 こうして見る限り、商業施設部分であるアベニューの現状は、惨憺たるものだ。かつて経験した悪夢のような負のスパイラルが再来しており、ゴーストタウン化してしまっている。開業から30年を経て、もはや商業施設としては末期を迎えているといっても過言ではあるまい。

 ただ幸いにして、「新神戸オリエンタルシティ」を構成する3施設のうち、残りの2つの「ANAクラウンプラザホテル神戸」と「新神戸オリエンタル劇場」については、健闘している模様だ。

 2階に位置する「新神戸オリエンタル劇場」

 まず、施設全体の上部部分4階~37階に位置する「ANAクラウンプラザホテル神戸」は、新神戸駅直結というアクセス面での優位性に加え、神戸の街を一望できるロケーション、行き届いたスタッフサービス、高質な食事など、多少なりともハード面が経年劣化しているという問題はあるものの、神戸の玄関口にふさわしい格調高いホテルとして、まずまずの評価を得ている。

 また、施設の2階部分にある「新神戸オリエンタル劇場」は668席の客席を備え、演劇やミュージカル、落語、コンサート、映画、舞踊などあらゆるジャンルの公演を行うほか、一般向けに貸館サービスも実施発表会や企業式典、学校説明会など、さまざまな催し物に対応することで、こちらも相応の評価を得ている模様だ。とくに、同劇場で演劇などの公演がある際には、多くの人が足を運んで施設全体が活気にあふれるようで、ちょうどドームでホークスの試合があった際に、普段はガラガラのホークスタウンモールに人があふれる様子と似ているのかもしれない。

中内氏直筆の言葉が刻まれた石版

 「新神戸オリエンタルシティ」の1階部分の施設外周部、ロープウェイ駅に続く連絡通路の脇には、「よい品を どんどん 安く より豊かな 社會を」という中内氏の直筆が刻まれた石版が掲げられていた。かつて中内氏が「神戸の玄関口にふさわしい複合商業施設を――」と目指した「新神戸オリエンタルシティ」は、今年9月でちょうど開業から丸30年の節目を迎える。だが、悲しいかな、もはや時代の流れから、取り残されつつあるようだ――。

(つづく)
【坂田 憲治】
 

(15・4)
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