2024年04月26日( 金 )

日本初の冷凍車を走らせた女傑 富永シヅ氏(元福岡運輸社長)(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

倉庫業に進出

 戦争が激しくなると漁師や従業員は戦地に駆り出され、船舶も徴用されて漁業は開店休業同然になった。

 やがて終戦。従業員が続々と復員してくる。家族ともども養わなければならない。国は食糧難対策の一環でいち早く漁業再開を支援、獲った魚は飛ぶように売れた。

 シヅ氏は「天洋水産(株)」を設立し漁業を再開したものの、漁業だけでは限界も感じていた。新規事業を模索していたところ、戦前大手倉庫会社に勤務していた親戚が戦地から引き揚げ、シヅ氏に倉庫業を始めることを進言する。日本の復興には各地から運び込まれる物資を保管する倉庫が欠かせない、倉庫は港の前に広がる焼け野原となった土地に建てればよい、という提案だ。幸いなことに亡夫が福岡市から分譲された土地が長浜町にあり、これを利用することにした。終戦から3年目の1948年、第1号倉庫が完成、これが現在の福岡倉庫(株)のスタートとなる。倉庫業進出を勧めた前田逸平氏は後に福岡倉庫社長に就任、事業拡大に腕を振るう。

トラック運送事業へ

 復興が軌道に乗り、もはや戦後ではないと言われた1956年、「トラック運送業をやらないか」という話がもち込まれる。戦前の企業合同で設立された「福岡貨物自動車運送(株)」という会社が戦後、合同前の会社がそれぞれ独立して事業を始めたため引き受け手がおらず事業停止状態になっていたのだ。

 当時のトラック運送事業は免許制で、国は新規の免許取得に厳しい条件を課していた。トラック運送は倉庫業と関連が深く、何より休眠会社を継承すれば手続きが複雑で時間のかかる免許申請をする必要がない。翌57年、同社を買収し社名を「福岡運輸」に変更、事業を開始する。ところが、前会社時代の後始末が片付いていなかった上、営業責任者が辞めてしまい、新会社は開始早々から倒産の危機に直面する始末だった。

冷凍トラック開発

 運送事業を軌道に乗せるのに悪戦苦闘しているとき、耳にしたのが当時進駐軍と言われた米軍が食品の低温輸送を行う事業者を募集しているという話だった。福岡倉庫は米軍家族の引越し業務を手がけており、この関係から福岡運輸に声がかかったらしい。

 当時米軍は本国から輸送した兵員とその家族用の食品を横浜港に陸揚げした後、国鉄の冷凍貨車に積み替え、貨物駅で降ろすと本国から持ち込んだ冷凍車で基地に配送していた。国鉄の冷凍貨車といっても当初は氷と岩塩で冷やすだけのお粗末なもので、その後開発された軽油の燃焼エネルギーで冷凍する機械も、軽油を補給するたび引き込み線に入らなければならず、横浜・福岡間で4日かかっていたという。

 米軍は輸送業務を日本のトラック業者への委託に切り替えるため、説明会を開いて業者を選定することにしたのだった。旧国鉄博多駅構内の建物で開かれた説明会にはシヅ社長が自ら出席、終わるとその場で手を挙げた。冷凍車の存在さえ知らなかったシヅ氏を決断させたのは、米軍が会場に参考のため持ち込んだ大型電気冷蔵庫だった。初めてみた電気冷蔵庫に「日本にも普及する時代が来る。冷凍トラックでの輸送は社会の役に立つ仕事になる」(「富永シヅ物語」)と直感したのだ。

矢野特殊自動車に依頼

 福岡市春吉にあった矢野特殊自動車に話をもち込む。創業者の矢野幸(幸はにんべん付き)一氏は豊田自動織機自動車部(現・トヨタ自動車)に先駆けること約20年、大正初期に「アロー号」と名付けた国産初の自動車を独力で製作した。量産技術を確立できなかったため、試験作品に終わったが、その後はダンプ車などの特装車を手がけていた。

 開発の苦労話は「富永シヅ物語」に詳しい。最大の難問は冷凍する車載用コンプレッサーが日本ではまだなかったことだった。行き詰っていると、米側に使わなくなった軍用中古トラックがあるという話。調べると何と冷凍ユニットがあるではないか。

 1958年9月、国産初の冷凍車が完成する――。心臓部の冷凍機の主要部品は米国製だったが――。福岡陸運支局への登録申請がいったんは却下になりかけるなど曲折はあったが、米側の厳しい検査に合格。初仕事は同年12月、福岡県春日市から山口県岩国市の米軍基地へのミルクとアイスクリームの輸送だった。

 運も味方する。朝鮮戦争で使用された冷凍車がたまたま払い下げられ、入手することができた。部品を修理再生し、新たに4台を加えた。冷凍車の投入によって青息吐息だった経営は軌道に乗り、59年には早くも20台を擁するまでになった。

 冷凍トラックはシヅ氏の事業にかける執念と矢野自動車の技術力の結晶と言ってよい。冷凍車はその後、国産の車載用コンプレッサーが開発されたことで急速に普及、福岡運輸の専売特許ではなくなった。だが、この分野のパイオニアとしての実績が評価され大手ハムメーカーなど全国的な有名企業が同社に輸配送を依頼。これに対応して全国に営業網を拡大、業界大手に君臨した。

 家庭的には恵まれなかった。夫を早く亡くし、あとを頼む息子2人も80年二男・恒二氏が42歳で、94年には長男・義昭氏が57歳で相次いで死去した。シヅ氏は2人の子どもの分まで生き、2006年5月、97歳の天寿を全うした。

 シヅ氏のつくり上げた企業のうち、福岡倉庫は恒二氏の長男・太郎氏が、福岡運輸は二男・泰輔氏が継承、両社とも順調な業績を上げている。
徳島出漁団が五島に来なかったら、シヅ氏は教育者として一生を終え、現在の福岡運輸もなかっただろう。運命の不可思議さを感じざるを得ない。

(了)

※この稿を執筆するにあたり椿六郎著「富永シヅ物語」(スカイビュープランニング)を参考にさせていただきました。

 

 

(前)

関連記事