2024年04月24日( 水 )

【ワタミ創業者、渡邉氏が経営復帰】「ブラック企業」の汚名を着せられ~ガムシャラに突き進んできた人生哲学(前)

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 外食チェーン大手のワタミの創業者で自民党参院議員・渡邉美樹氏が経営に復帰する。渡邉氏は夏の参院選に不出馬の意向を表明しており、議員に転身した2013年以来、6年ぶりの経営復帰となる。「ブラック企業」の汚名返上となるか。

父の会社の倒産で、社長を志す

 ワタミといえば、「ブラック企業」の代名詞だった。ブラック企業と槍玉に挙った企業が数あるなかで、ワタミだけが猛烈な批判を浴びたのは、渡邉氏が自身のモーレツな生き方を企業運営にもち込んだことからくる。渡邉氏の人生を振り返ってみよう。多数の著作を出版しており、著作に基づき経歴の部分を要約する。

 渡邉美樹氏1959年10月5日、神奈川県横浜市で、CM制作会社の社長を務める父親の長男として生まれた。東京・東銀座にあった父の会社は、植木などを起用した、「何である、アイデアル、これ、常識」のスポットCMを制作したことで知られる。

 渡邉氏が10歳、小学5年生の時。母が慢性腎炎で36歳の若さで急逝。半年後には父親のCM制作会社が倒産した。原因はテレビのカラー化に遅れてしまったことだった。

 渡邉氏は少年期に、心と財産という2つの大きな柱を失った。急に無口な少年になり、祖母と2人で寂しい毎日を送る。この時期の辛い経験が、彼の原動力となり将来を決めた。父親の仇をとると誓い、小学校の卒業アルバムに「おとなになったら会社の社長になります」と書いた。

 たまたま受かった明治大学商学部に進学。渡邉氏が大学時代に掲げた目標は2つ。1つは、何の業種で起業するかを決めること。外食産業で起業することを決めた。

 2つは、社長としてのマネジメント能力を身に付けること。渡邉氏は横浜会という伝統ある県人会の幹事長に就いた。歌手の森進一と明治大学マンドリンクラブを呼んで、障がいのある児童のための募金コンサートを企画。昼夜合わせて1万2,000人を集め、横浜文化体育館を満員の観客で埋め尽くした。森進一のギャラは通常500万円を250万円に値切った。そして寄付金は870万円を集めることに成功した。

起業資金を1年間で300万円貯める

 1982年4月。明治大学商学部を卒業した渡邉氏は、経営者に不可欠な経理を勉強するために、ミロク経理に入社した。このとき通っていたレストランのシェフの妻を見初め、1年以上かけて“略奪婚”もしている。ミロク経理に半年間勤め、バランスシートの読み方を覚えると、次に起業資金を貯めるため横浜佐川急便のセールスドライバー(SD)に転職。

 佐川急便の仕事は高給だが、その労働環境は苛酷なものだった。一日の労働時間は20時間以上。2回の事故、救急車にも乗った。赤信号の僅かな時間に寝る。さらに大卒の渡邉氏に対する風あたりが強く、先輩のSDからのイジメが絶えなかった。

 それでも渡邉氏が決して逃げ出さなかったのは、「おカネを貯めて会社をつくる」という目標があったからだ。渡邉氏は1日22時間労働、手取り47万円。内12万円を生活費、残り25万円を貯金。1年間で、300万円のカネを貯め、佐川急便を後にした。

 そして渡邉氏は「24歳の4月に社長になる」と日付を刻み込んだ。日付を刻む。この行為が渡邉氏の代名詞となる。「オレはこの日までに○○をやる」と期限を決めることで、自分を戒め、律するのである。半年の設立準備期間中に、接客のノウハウを学ぶために、焼き鳥屋からホストクラブのホストのアルバイトを経験した。

(つづく)
【森村 和男】

(中)

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