2024年04月26日( 金 )

弁護士による過失論と素人による理解~原発事故の東京地裁判決について

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 判決は無罪判決であった。これは法律に関しては素人である国民にとって、多少なりとも意外な判決だった。

 多数の死傷者・被害を発生させた原発事故の責任を加害企業のトップの誰もが負わないとする判決は、刑罰法が存在し、加害者は適切に処罰されると期待する国民を裏切る結果だからである。その裏切りの根拠となったのが、刑事法理論における過失論にほかならない。

 NetIB-Newsに小橋弁護士による専門的な解説が投稿(「東電幹部の刑事事件判決について」)されたが、この解説を読んで納得した法律について素人である一般の読者がいたら、それはむしろ理解に苦しむことである。

 読者が過失理論の複雑さを理解して、専門的にはそうなるのだろうと「説得された」と筆者は理解する。

 そもそも過失論が複雑精緻に構築されたのは刑罰法の(業務上)過失罪についてではなく、民事法の不法行為上の賠償責任の過失割合の議論の結果である。自然災害などにおける工作物責任についてではない。

 自然を相手ではそもそも過失相殺が存在しないから、過失論を精緻に構築する必然性や契機は存在しなかった。日本の刑事法学が、犯人の権利を擁護するために刑法上の過失論を精緻に構築したという歴史的事実も存在しない。

 以上の過失論の形成過程を理解すれば、多数の死傷者・被害者が発生した原発事故について、過失割合がゼロといえる被害者の存在を第一義に考慮すれば、加害企業の責任者は極めて軽微な過失であっても、重大な結果を引き起こした責任――それは当然、民事責任、刑事責任の両方を含む――を負うのは極めて当然ということになる。(民事賠償責任のために構築された)精緻な過失論やそれを採用した判決が不当であることは明らかである。

精緻に見える過失論の問題点―自然災害の将来予測と人間行動予測の差異

 合理的行動を模範とする人間行動についての予測については不確定要素は比較的少ない。従って、過失相殺論は精緻に構築できる。

 一方、自然災害、とくに地震や津波による災害については、その将来予測は現在の科学水準に制約される。そのような状況のなかで、発生する津波の高さの予測について過失論を展開したのが、東京地裁判決である。そもそも裁判官は地震学者でもなければ原子力発電産業の専門家でもない。津波による原子力発電の崩壊について津波の発生とその被害の予測および被害防止の技術程度についてはまったくの素人である。

 結局、小橋論文のように発生する被害が甚大な原子力産業の事業者には高度の危険事業者として高度の注意義務が課されると主張する見解(高度に専門的であるがゆえに、その責任は無過失責任と立法することもあり得る)とその事実をあえて無視し、交通事故程度の危険行為の論理で、判決のように高度な注意義務までは課されないとする「価値判断」に左右されることになる。つまり、精緻な理論構成の本質は結局は単なる価値判断の選択の差異に過ぎない。

 将来予測に関する判断は、結局は価値判断である。実証が不可能だからである。結果論は一般的には不適切な論理であるが、将来予測に関する議論の場合、現実に発生した災害については極めて決定的な論拠となる「想定外」という「逃げ口上」を防止する。

 判決は15.7mの予測値が根拠のないものであったと認定したが、その認定は極めて恣意的である。津波の予測値に確たる根拠などそもそも存在しないからである。

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

▼関連リンク
東電幹部の刑事事件判決について

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