2024年04月20日( 土 )

「手続的正義」どっちが大悪?~東名高速あおり運転事故(後)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

手続的正義の本籍

 刑事司法は捜査から開始し、裁判手続で終了する。捜査は司法警察員の犯罪捜査とその結果を受けて検察官が公訴提起する。日本の刑事手続きが近代的な法治主義の理念のもとで遂行されたのは明治以降であるが、ほんの最近まで、基本的証拠として犯人の自白が必要とされた時代があったように、法治主義といっても法律の内容と実際の執行の中身を確認しなければ、何でもかんでも法治主義の一言で片づけられるものではない。

 日本の司法官憲が被疑者を拷問したり不当に長期の拘束をしたりして自白偏重主義にあったことは歴史的事実であり、この刑事司法手続きを批判し、弾劾するためのキーワードが手続的正義の概念であった。具体的な例の1つが、違法収集証拠の証拠能力の否定を主張する議論である。

 日本の裁判法の基本理念は、裁判開始の要件として訴訟要件を規定し、その要件を充足して初めて本案の審理に入る。本案審理と本案前審理である。刑事裁判においても、犯罪構成要件事実を認定すること(本案審理)は証拠によるから、証拠が適法に収集されたものであることが前提となる。このため、検察官提出の証拠が適法に採集されたものであるかどうかが「本案前審理」で争われる。つまり、手続的正義の本籍地は警察官や検察官の捜査手続についての争点である。

手続的正義の効果

 手続的正義が欠けた場合、本案審理をしてはいけないというのが1つの論理的結論である。この極めて重大な結論が本件高裁判決で踏みにじられており、その意味で、本件高裁判決が主張する手続的正義は日本独特、あえて厳しくいえば似非手続的正義である。

本件訴訟手続きの分析

 本来の手続的正義が争われる司法官憲の捜査手続ではなく、訴訟手続きに入ってからの裁判官の訴訟手続き違反が判決を破棄すべき程に重大なものとされた。しかし、それが手続的正義違反であれば、本案の審理判断が禁止されるのがその法的効果であるはずだから、当該高裁判決が、原審が、犯罪行為について重罪を規定する危険運転致死罪を擬律することは正しいと判示したことは極めて重大な違法判断となることは明白である。

 さて、本件高裁判決には、その意味で重大な法的瑕疵があるから、まず、検察官は上告するのが当然である。そして問題は被告人(の弁護人)である。被告人にとっては科刑の不当を争う余地が奪われているが、さりとて再度第一審から審理をやり直したところで、高裁判決が「出過ぎた」本案審理をしている「金縛り」の効果が否定できない。

 結局、同じ重罪で第一審の判決が出れば(このままではその可能性が大である)二度手間を裁判官のミスの結果、負担させられるだけに終わってしまう。そうであれば、被告人(の弁護人)も上告すべきこととなる。いずれにせよ、第一審の裁判官の過誤、そして第二審の裁判官の過誤と2つの過誤に振り回されていることはたしかである。

 どちらの裁判官の過誤が大なのだろうか。

(了)
【凡学 一生】

(前)

関連記事