2024年05月06日( 月 )

日本版「#MeToo」裁判~女性蔑視・男尊女卑の日本社会(7)

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似非科学

 1人の女性ジャーナリストの真摯な訴えが、日本社会のどす黒い水底の澱を浮かび上がらせている。それは日本の法律学や法律理論が「似非科学」であるという真実である。

 筆者は先に、有名なヤメ検弁護士が、昔の古い証明論議を使って、本件不起訴処分と民事第一審判決の矛盾齟齬をあたかも当然かのごとき論文を批判した。幸いなことに、事件が大きく報道されればされるほど、さまざまな人々がそれぞれの立場で事件についてのコメントを発表している。

 一番普通の庶民的感覚といえるのが、某お笑いタレントの「所詮、密室の2人だけの出来事だから、真実はわからない」という論評である。お笑いタレントの学識力を批判しても仕方がないが、当該お笑いタレントは自身のコメントがいかに無責任で、とくに被害者である側の人々を深く傷つける謬論であることまでは理解できない。

 一方、このコメントをテレビで視聴した大多数の国民のなかにはこれを受け入れた人々も多かったであろう。このコメントには証明論において、極めて重大な誤謬がある。今後、このような小学生程度の不可知論がマスコミで論評されないことを願うのみである。

 さて、密室論の誤謬を指摘する前に、先のヤメ検論法にも重大な誤謬があることを指摘したい。それは「厳格な証明」論の議論される「局面」の問題である。この「局面」を理解することによって、犯罪捜査官である中村格氏が逮捕状執行を停止させた行為がほぼ違法行為、少なくとも業務違反行為であることが同時に理解されるだろう。

局面無視の証明論

 「厳格な証明」とか「疑わしきは罰せず」という法命題は、裁判官が終局判決を行う場合の行為規範である。検察官や司法警察員がこの行為規範を口にだしては仕事にならない。

 検察官は、被害者の訴えをむしろ素直に真実として受け容れ、事件を捜査し、「一応の疑い」で公訴提起し、事件を公平公正な裁判手続に委ねなければならない。とくに、性被害事件については、検察官や司法警察員が「密室のなかの2人だけの事象だから、真実はわからない」という立場をとったら、刑事司法そのものが成立しない。

 実際、本件事件では被害者の女性は警察官、しかも男性警察官の面前で具体的な性行為の状況を実演させられている。被害主張が空想的でないことが当然確認されなければならず、やむを得ない手続であった。この具体的な捜査の結果、性暴行の事実の存在を推認した警察官らが逮捕状を請求した。

 なぜ、逮捕すなわち身柄拘束が必要か。これは事件の性質による。当然、加害者の男性は準強姦の被疑事実を否定する。そのために、証拠隠滅を図る。しかも、強制的に性行為の実際を女性に求めたのと同様に具体的に男性にも実演させる必要がある。

 この2つの実演を比較検討して真実を究明するしかない。これらの性質を持つ事件であるから逮捕は必然である。この捜査過程を抜きにして犯罪事実の存否は判断できない。密室の行為といえども、当事者には実演して説明してもらう必要があり、また、加害者は弁解する権利もあるのだから、当然、具体的な実演を含めて弁解権を行使すべきであった。

 以上のように、事件の性質から逮捕は必然であるから、中村格氏の「逮捕の必要がない」との言説にはまったく合理的理由がない。告訴を受けた検察官が、加害者とされる男性の具体的実演を含めた弁解をどれだけ具体的に究明したかも疑問である。被害女性の証言が具体的で真実性が否定できない限り、不起訴処分の正当な理由は存在しえない。

 以上の事件の性質に応じた具体的な捜査の在り方を検討すれば、不起訴処分も逮捕状執行停止もお笑い芸人の素人コメントもすべてあり得ない話であることは明白である。

 問題は、お笑い芸人を除き、すべて、法律の専門家が下した結論であることである。それは、ヤメ検弁護士の不起訴処分擁護論も含めて、法律専門家による判断や主張である。

 ここに、日本の刑事司法の専門家の判断が実際には正義と論理に反している明確な事実が国民の前に曝されているという現実がある。この真の原因こそが、日本の法律学、法律理論が学問としての体をなしていないこと、似非科学であることの証明に他ならない。

 法律を学んだことがない人は知らないが、法律学の「通説」はわかり易くいえば、多数決である。「判例」はその時の最高裁裁判官3名ないし15名の「判断」であるが、もともとはエリート裁判官である最高裁判所調査官の「下書きした判決」である。

 現在の実務法曹家は全員が、この「判例・通説」を「葵の御紋」としている。かつてガリレオは「通説・判例」である天動説を否定して断罪された。「それでも地球は動く」と。多数決で決まる通説と少数の裁判官で決まる「判例」がすべて天動説とは言わないが、それらを支えているのが日本の法律学や法理論である限り、似非科学との非難に値する。

 先に、検察官の不起訴処分について「同一事件」について不可争力の規定が検察審査会法第32条に存在することが、検察官の不起訴処分に確定判決と同等の法的効果を与えるもので、検察官司法の権化そのものであると指摘した。いかなる法学理論によっても、この検察官の不起訴処分に確定判決と同等の法的効力を与えることは不可能であるはずだが、現実に存在するのもまた真実である。ほとんどの国民が知らない「不都合な真実」である。

(つづく)
【凡学 一生】

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