2024年05月08日( 水 )

【徹底検証】東京地検・次席検事による「ゴーン記者会見」へのコメント(後)

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「犯罪が存在しなければ起訴に耐えうる証拠を収集できるはずがない」という主張について

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 これはあらゆる意味で背理の謬論である。多数の冤罪をつくり出した日本の検察が主張するのだから、噴飯物であることは間違いない。このような詭弁に長けた人間が検察庁では出世するらしい。

 一見して独善であるのは、「起訴に耐えうる証拠」という表現である。「起訴に耐えうる」とは、専門的には、裁判所に棄却されない、という意味であろう。つまり有罪となる、裁判所も有罪と認める、という意味となる。これを自分でいうのか。「傲慢独善チーラ」(中国で「至極(しごく)」という意味)である。

 確かに、犯罪が存在しなければ、犯罪の証拠は存在しない。そのことと、検察が証拠と称するものが、合理的に論理的に犯罪の証拠であることとは無関係である。経験的に検察が証拠と主張するものが証拠でもなんでもないことが無数にあったから、弁護団は証拠の開示を求めるのであり、証拠と主張するなら、開示して公の批判検討に曝されなければならない。そういう意味では上記命題はまったく無意味な命題である。

 検察が犯罪の証拠と認めたものがあるから犯罪は存在する、という検察唯我独尊主義であっても構わないが、開示する必要がない、という主張まで正当化することはできない。

 以上の理由から、斎藤論文(5)は失当である。

 本件事件は司法取引が捜査の端緒となっている。その司法取引は日産の幹部2名との間で締結されたという。しかし、その詳細経緯は一切闇のなかにあり、検察は関係証拠の開示に応じていない。この検察と日産幹部との司法取引について、全容が開示されていない不当な状況をゴーンは「検察と日産の陰謀」と表現しているから、まったく事実に吻合する。これを何ら具体的な証拠を示さず「まったく事実に反する」と主張しても空念仏そのものとなる。

 以上の理由から(6)の主張は失当である。

「検察は主張やそれに沿う証拠開示を行ってきた」について

 これはさすがによく練られた文章である。現在問題になっている司法取引についての証拠開示は検察からみれば、「検察の主張」には当たらない。だから証拠開示していなくても当然である、ということになる。巧妙な論点ずらしの詭弁である。検察の手持ちの証拠で、被告人の有利、無罪を示す証拠の「隠蔽」となる不開示は常に被告弁護団と検察の対立テーマとなってきた。冤罪となった事件はすべて検察の「無罪証拠の隠蔽」が暴露されたことで発覚したと断定しても過言ではない。ここに、検察は証拠隠滅しても不可罰で、被告人側が証拠隠滅したら重罪可罰となる、事実上の日本の刑事司法の不正義がある。

 先に偽証罪が検察の公訴権独占の結果として、検察側証人についての起訴はなく、すべて被告人側の人々が起訴されているというこれまた事実上の不正義と合わせて、日本の刑事司法の不正義が明白に存在する。この問題は、検察は公権力の行使として収集した証拠を恣意的に開示・不開示できるのか、という刑事司法の根本問題に抵触する。検察の行為は公益に資する行為でなければならないことを考慮するなら、収集証拠の不開示など、根拠づける正当な理由などない。

 しかし、明治以来の日本の刑事司法はこのような奇妙な検察の自由裁量を認めてきた。

 これが日本刑事司法の不正義の原因の1つであることは明白である。司法取引の実態に関する証拠の開示不開示をめぐって検察と弁護団が対立していること自体が不正義そのもので、それに裁判所が判断を示さないどころか、検察に同調して、結局、公判期日をさらに1年先に延ばそうとしていることなど、もはや言語道断であり、不正義そのものである。

 この状況に、自分の人生がかかっているゴーンが、苦渋の選択を迫られた、と本件脱出事件の背景を理解する日本人はどれだけいるのだろうか。

「検察はゴーンに日本で裁判をうけさせるよう可能な限りの手段を講じる」について

 形式微罪である密出国罪で逮捕状請求し、国際手配したことが、正当化されているが、まったく詭弁である。ゴーンが逃げ帰った母国レバノンは犯罪者引き渡し条約締結国ではないから、レバノンが引き渡すかどうか、とくに、密出国罪は形式犯で微罪であり、ゴーンの密出国の理由には十分の汲むべき理由がある。これは逆の立場になれば、容易に判断できることであり、日本がかかる被疑者の引き渡しに応じたら、国民から大反発をうけるだろう。検察の今回の行動は真相を知る日本人はもとより、外国の良識からは到底賛同を得られるものではない。検察に記事情報を提供されている日本のマスコミなどが翼賛記事を書き、それにだまされた国民が何も知らずに賛同するのが関の山だろう。

 検察を「取材」して情報を得たなら、ゴーンの弁護団を取材して情報の信憑性を自らの責任で判断して公器たる新聞で報道した、と主張できる新聞記者がどれだけ日本にいるのか。

 今回、ゴーンの記者会見では多くの日本のメディアが参加を希望しても断られている。これはゴーンの日本の報道機関への痛烈なメッセージである。今からでも遅くはない。報道人の基本にかえって自己責任で真実を判断し、真相の報道を心がけていただきたい。

(了)
【凡学 一生】

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