2024年03月29日( 金 )

ドラッグストア今昔物語 業界の変遷をたどる(前)

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 医薬品小売業は、かつての薬局・薬店からドラッグストア(以下、DgS)として業態転換し、多様化する消費者ニーズに応えてきたことで支持を集めてきた。近年はそれによる競争激化にともない、チェーンDgSを軸に再編が活発に行われ、他業態からも注視されている。今回はその変遷について、医薬品小売業の歴史を振り返ることで、新しい時代のDgSがどのように変わっていくべきかを考える。

DgS業界のカリスマ 石田健二氏の功績

 2017年3月、ウエルシアホールディングス(株)が東京都台東区に「ウエルシア浅草まるごとにっぽん店」を開店。DgS業界では初となる店内の厨房で調理したカレーライスを食べられるサービスを始めた。ある日、筆者が同店を訪れると、野球帽をかぶり、ラフな格好で店舗奥のテーブルに座っている見知らぬ老人が、笑顔で手招きしている。

 「浅草に知り合いはいないのだが」と思いつつ近づいてみると、その人物は業界のカリスマといわれる(株)ハックイシダ創業者で現・(株)CFSコーポレーション名誉会長、(株)ウエルシアの石田健二氏だった。その日は競合の(株)マツモトキヨシや(株)アインファーマシーズの店舗視察をしており、ウエルシアHDにレポートを提出するという。すでに業界の一線から退いている石田氏だったが、カリスマといわれるだけに、DgSに対する熱い情熱と勤勉さは、いまだ衰えていないようだ。

 石田氏が業界の牽引者といわれる所以は、現在のDgSの業態を導入した第一人者であることだ。神奈川県を拠点に「ハックドラッグ」として店舗を展開していた石田氏は、1976年に日本発自社独自のDgS「ハック横浜杉田店」を横浜市杉田区に開店。93年には、同市青葉区にある、当時は新興住宅街だった「たまプラーザ」の郊外にスーパーDgS「ハックドラッグ美しが丘店」をオープンした。同店は比較的富裕層が多い商圏で、テレビドラマ『金曜日の妻たちへ』の舞台になったことでも知られている。

 さらに石田氏は、今では店舗構成のスタンダードといえる、DgSとスーパーマーケットを併せた業態店舗を国内でいち早く取り入れ、96年4月にフード&ドラッグのコンビネーションストア(COMBO)業態による店舗「ザ・コンボJr.厚木妻田店」を神奈川県厚木市に開店した。売り場づくりにおいて「アイケア」「オーラルケア」といった訴求による棚置きを展開。消費者目線からライフスタイル別に分類した売り場をつくり、新たな需要を創造することを、日本で初めて取り組んだことでも知られている。当時、ハックの店舗には連日のように日本全国からDgS経営を目指す薬局・薬店の経営者や幹部、メーカーなどの業界関係者が訪れ、同社の事業経営を学び、相談もあったという。

かつての薬局業界は「西高東低」

 カリスマと呼ばれる石田氏が頭角する前の薬局業界の歴史を見てみると、いわゆる「流通革命」を起こした(株)ダイエーの創業者の中内㓛氏が大阪市旭区にある千林商店街に1号店「主婦の店ダイエー薬局」を開店し、DgSの前身となる薬店としての店舗形態が広がったのが50年代後半。当時は新しいかたちの薬系店舗をつくること夢見ていた薬局経営者を対象とした研究会グループ「JDS(JAPAN Drug Store)、通称:山口学校」と呼ばれる勉強会が定期的に開催されていた。

 同研究会には石田氏のほか、(株)カワチ薬品創業者の河内良三郎氏(故人)、(株)キリン堂ホールディングス会長・寺西忠幸氏、DCMホールディングス(株)名誉会長・鏡味順一郎氏、ツルハホールディングス(株)名誉会長・鶴羽肇氏など、その後のDgS業界をリードする企業に成長させた経営者が名を連ねていた。

 60年代に入ると、「関西御三家」といわれていたヒグチ産業(株)(現・薬ヒグチ&ファーマライズ(株))、(株)コクミン、(株)セガミ製薬所(現・(株)ココカラファインヘルスケア)が牽引していた。ある大手製薬企業の幹部は、当時の薬局事情について「関西の薬局で流通に関する問題が起きたときなどは、1にヒグチ、2にコクミン、3にセガミの順で相談に出向いた。関西の薬局は繁盛店も多く勢いがあったので、各製薬企業は関西の薬局の取引に注力していた。今と同様に、当時から価格競争も非常に激しかった」と話す。

 この業界情勢は70年代にも続き、当時の日経新聞、日経MJの「日本医薬品小売業トップ10」によれば、72年度は、1位ヒグチ薬品産業(本社東大阪)売上高80億円、2位コクミン(同大阪)同57億円、3位マツオカ薬品(同名古屋)同43億円、4位セガミ製薬(同東大阪)同28億円と関西勢が強く、薬ヒグチがフランチャイズ事業を開始。創業者の樋口俊夫氏がゾウの上に乗り、「目標、1,327店!(当初は427店)」と宣言するテレビCMの放映は話題を呼んだ。当時FC展開を推進していたのは、薬ヒグチだけで、関西の薬局は、DgSのチェーン展開には関心が薄かった。

(つづく)

【大川 善廣】

(後)

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