2024年04月29日( 月 )

【ブランド考】三陽商会、富士ゼロックス、日産自動車の場合~ブランド変更がもたらす打撃を検証(後)

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 ブランドとは、高級品として有名な商品と、その商標をいう。では、ブランドは誰のものか。答えは「消費者と企業のもの」だ。消費者が「ほかの商品と違う。絶対にほしい」と思わなければ、ブランドとして成り立たない。つまり、ブランドの主導権を握っているのは消費者なのだ。だから、ブランドを失うことは、消費者から見離されたことを意味する。企業にとって死活問題になる。

日産は世界統一ブランドを「DATSUN」から「NISSAN」に変更

 ブランド変更の最悪の例を取り上げよう。日産自動車のケースだ。
 1981年、日産自動車の社長石原俊氏(当時)は「DATSUN」ブランドを廃止し、世界統一ブランドを「NISSAN」とする方針を打ち出した。

 ダットサンの名前は、1914年、快進社が「ダット1号車」を製造したことに由来する。DAT(ダット)は快進社への出資者3人のイニシアルから取られ、DATの「息子」を意味する「DATSON」が生まれた。だが、「SON」は損を連想させるため、発音が同じで太陽を意味する「SUN」に替え、「DATSUN(ダットサン)」と命名された。
 「DATSUN」ブランドを譲り受けた日産自動車は1933年、「ダットサン12型フェートン」の製造を始めた。フェートンは4人乗りの折りたたみ式のオープンカーである。

 「DATSUN(ダットサン)」は、創業当時から親しまれてきたブランド名である。
 なぜ、DATSUNブランドを捨て、NISSANブランドに変えたのか。その動機がいたって不純なのだ。

米国市場開拓の功労者に嫉妬して、「DATSUN」ブランドを葬り去った

 米国市場開拓の最大の功労者は片山豊氏である。片山氏は、日本人としてトヨタ自動車の豊田英二氏やホンダの本田宗一郎氏らとともに米国自動車殿堂入りをはたした快男児だ。
 片山氏は、米国ではダットサンブランドの車を売りまくった。最大のヒットになったのが、1970年に発売した「Zカー(ズィーカー)」。日本名で「フェアレディZ」。若者をターゲットにしたスポーツカーだ。日本車なんか見向きもしなかった米国の若者に「Zカー」を「DATSUN240Z」のブランドで売りまくった。
 片山氏は米国在任17年間で、年間販売台数が1500台だった日産を、米国における輸入車売り上げ1位のメーカーに引き上げた。

 しかし、片山氏の名声が高まるほど、石原氏との亀裂は深まった。片山氏の名前を口にすることは本社内ではタブー中のタブーとなった。
 石原氏は、片山氏を本社の役員にしなかっただけでなく、とうとう日産から追放した。
 片山氏を思い出せる「DATSUN」ブランドを葬り去ったのである。さらに、若者向けにつくっていた「Zカー」を高級車へと衣替えしてしまった。
 「Zカー」の生みの親である片山氏は、「ブランドはユーザーのもの。売る側の都合を押し付けてはいけない」と述べている。まさに至言である。

 「DATSUN」を使わなくなったため、全米で日産のクルマは販売不振に陥り、経営が悪化した。片山氏の名声に嫉妬した石原氏の失政のツケは、実に大きかった。
 米国で知名度が高かった「DATSUN」ブランドを「NISSAN」ブランドに統一したことは致命的な戦略ミスとなった。北米市場を筆頭にグローバルマーケットで歴史と競争力をもっていた「DATSUN」ブランドを自ら放棄したことが、日産が長期的に低迷する原因となった。これが、日産が経営危機に陥り、カルロス・ゴーン氏が日産の再建に乗り込んでいくことにつながった。

 ブランドの変更はテレビCMを変えるのとはわけが違う。ブランドの変更は日産の屋台骨を揺るがしたのである。このことを経営者は肝に銘じておかねばならない。

(了)

【森村 和男】

(前)

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