2024年04月19日( 金 )

【縄文道通信第73号】温故知新シリーズ―縄文土器から陶器への展開(前)

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(一社)縄文道研究所

 Net-IB Newsでは、(一社)縄文道研究所の「縄文道通信」を掲載していく。
 今回は第73号の記事を紹介。

縄文土器から弥生土器、そして陶器文化へ

 第72号にて、縄文土器の偉大性、芸術性、世界性など、縄文土器がいかに優れていたかを紹介した。

【縄文道通信第72号】温故知新シリーズ―縄文土器発明の偉大さ~縄文道―武士道-未来道(後)

 弥生文化の開始時期には諸説あり、紀元前700~800年ごろから紀元後250年ごろまでの約1000年続いたといわれる。この弥生時代は、主に朝鮮半島からの渡来人が日本列島に渡来し、さまざまな技術を日本列島に持ち込んだ。農耕技術、青銅器、鉄器、祭器、など多くの技術が渡来人によってもたらされたが、土器も形状はすっきり・シンプル・薄手・小ぶりになってきた。ちなみに弥生文化は、東京都文京区の弥生町で発掘された弥生の土器を含めた遺物により、弥生文化、弥生時代と命名された。

 縄文土器と弥生土器の相違はどこにあるのか。以下は対比表である。 

        縄文土器        弥生土器        
製造方法    野焼き         覆い焼き
焼成温度    600~800度      800~1000度
形状      厚手          薄手
デザイン    装飾過多        質素、シンプル
色状      茶色、黒焦げ      赤色、赤茶け色

縄文土器 イメージ 以上の差異は、農耕文化の発達と食料の保存方法にも関係しているといわれる。

 弥生時代を終えて、日本は古墳時代に突入し、たくさんの渡来人が列島に移民し定住した。豪族が台頭した群雄割拠の時代であり、発掘された多くの古墳から歴史的事実が実証されている。最大の古墳は奈良県の仁徳天皇陵である。渡来人が縄文・弥生人と混血し、倭人の原型ができた時代でもあった。

 約350年の古墳時代を終えて、飛鳥・奈良時代に入り、土器の時代から陶器の時代への技術革新があった。すなわち半島からの技術の導入で須恵器ができたことだ。須恵器は土器から陶器への進化の証でもある。

 陶器という観点では、以下3つの技術導入が大きい。

(1)轆轤の導入によって、成形、加工の技術が発展。
(2)登り窯の導入で大量生産が可能。
(3)高温焼成の技術。1200度以上。

 日本の陶器の発展の歴史においては、半島からの技術で発展した須恵器の系譜と同時に、縄文土器から続く日本的な陶器の系譜をもつ土師器を日本的土器として忘れてはならない。

 土師器は、日本の陶器の窯元のなかで六古窯として有名な陶器である。それは、備前、丹波、越前、信楽、瀬戸、常滑の六古窯でつくられている陶器である。平安時代を通じて各窯元で独自に発展を遂げた日本の陶磁器の系譜の1つに育っていった。素朴で、豪快で、力強さを備えた中世の陶器である。

 窯のなかで焼成されるとき、炎の熱を受けて生じた緋色、人知の域を超えて流れる釉薬の表情が特徴的だ。まるで生命が宿っているような個性が感じられる。これらの土師器は縄文土器の影響を基層で受け継いできた土器であろうと思う。

(つづく)


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(後)

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