2024年04月27日( 土 )

【日本地方再生の道(2)】亀山城址から亀岡市の活性化策を考察

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京都府亀岡市の亀山城址

亀山城址    京都市の市街地から自動車で約40分のロケーション。市街地から国道9号、京都縦貫自動車道、国道478号をほぼ西へ26km移動すると到着する。

 亀山城の歴史は安土桃山時代まで遡る。1576〜78年に築城されたという説があるが、現在も築城年は不明のまま。旧丹波国桑田郡亀岡(現在の京都府亀岡市荒塚町)に築かれた。築城したのは、織田信長の命により丹波攻略中であった明智光秀。丹波国を統治するための重要拠点であった。

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 明智光秀は城主として当地の統治に携わったが、1582年に本能寺の変を起こし、主君・織田信長を討った。本能寺の変出陣はこの城からであった。本能寺の変後、羽柴(豊臣)秀吉との山崎の戦いで敗れ自刃した。山崎の戦い後は、天下を統一した豊臣秀吉の重要拠点として、一門の羽柴秀勝・豊臣秀勝・小早川秀秋・前田玄以・前田茂勝が同城で当地を治めた。

 1603年、徳川家康が朝廷より征夷大将軍に任命され幕府を開いた。しばらくの間は天領であったが、1609年に徳川家譜代の岡部長盛が丹波亀山藩主となった。そして江戸幕府の天下普請の一環として、藤堂高虎が同城の縄張りを務め、本丸五重の層塔型天守の大改築を実施した。諸説あるが、同城が日本初の層塔型天守との見方もある。

 その後、松平家、菅沼家、久世家、井上家、青山家が当地を治めた。1871年8月の廃藩置県で亀岡県となり、同年11月に京都府に合併された。同城は明治維新後の1877年に政府が廃城を決定し、89年に自治体へ転売された。しかし、当時の自治体は城を管理せず、荒廃してしまった。

亀山城址    1919年11月、新宗教「大本」の指導者・出口王仁三郎が同城を購入し、拠点とした。政府は当時、勢力を拡大する「大本」に警戒を強めた。城内に築かれた神殿を爆破・破壊する大本事件などが起こり、弾圧された。第二次世界大戦後、再び「大本」によって所有・再建され、現在に至る。城址には当時を忍ばせる石垣の刻印や植樹があり、壮観である。

 城の北東部850mの位置に、保津川(大堰川)下りの出発地がある。保津川下りは、同河川の流れを活用し、京都および大阪に物資を運んでいた重要な物流インフラであった。当初は城や寺院などの建築のため、上流から木材が輸送された。1606年、京都の豪商・角倉了以が私財を投じて河川を開削し、米・麦・薪などの生活物資も輸送された(明治中期からは観光の遊船も行われた)。

 保津川下りの輸送は世界大戦直後まで続けられ、鉄道やトラック輸送の発達により、その役目に幕を閉じた。一方で、風光明媚なロケーションであることから、観光遊船の川下りが実施され、世界的に著名な舟下りとして年間約30万人の観光客が同地を訪問する。

 このように激動の歴史を歩んできた亀山城。城趾のある亀岡市は京都都心部と隣接した地域である。人口は2001年の9万5,890人をピークに、減少の一途をたどり、今年4月1日現在では8万7,302人(亀岡市ホームページより)。京都府第3のまちであるものの、厳しい状況にある。

 同市は京都市西京区と右京区、大阪府高槻市・茨城市に隣接し、都心部への通勤・通学のアクセスが整備されている(JR山陰本線、京都縦貫自動車道、幹線国道など)。街としての機能のほか、アユモドキ(国の天然記念物)やオオサンショウウオ(特別天然記念物)、ホトケドジョウといった水田生態系が豊富に残されるなど、街と自然のバランスが取れた環境にある。そして観光資源として、前述した亀山城趾をはじめ、保津川下り、トロッコ鉄道、湯の花温泉がある。さらに、京野菜の主産地としても著名である。

 同市の活性化として、以下のような取り組みを挙げることができる。

(1)市内の観光資源と連動した取り組みの強化。
(2)観光スポットを周遊、探訪する旅行商品・サービスの開発、京野菜を楽しめる店舗との連動など。
(3)明智光秀をはじめとした歴史上の人物をクローズアップし、同市のPRを強化。
(4)「サンガスタジアム by KYOCERA」は京都府内唯一の球技専用複合型スタジアムで、Jリーグの京都サンガF.C.のホームスタジアム。サッカーをはじめ、ラグビーやアメリカンフットボールなどもできるため、積極的に試合を誘致。

 同市は豊富な観光資源を有し、インフラも整備されている。双方を最大限活用した方策を自治体と民間が連携して実現することで、地域活性化の推進が期待される。

【河原 清明】

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