2024年04月26日( 金 )

【日本地方再生の道(3)】「丹波・丹後」丹波篠山市と明智光秀

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篠山城    兵庫県中東部に位置する丹波篠山市は、1999年4月に旧多紀郡の4町(篠山町・西紀町・丹南町・今田町)が合併し、篠山市となり、2019年5月1日に現在の丹波篠山市に市名を変更した。

 そもそも丹波という地名は、古くは「たには」と呼ばれた記録が残っているものの、大宝律令の施行とともに「丹波」に呼称が統一された説が有力となっている。該当する地域は、京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部。京都府側は亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町、綾部市、福知山市。兵庫県側は丹波篠山市、丹波市となっている。

 丹波は、平安期から江戸期まで京都の玄関口として各時代の為政者や権力者から重要視された地域で、丹波篠山市もその1つであった。同市のシンボルの1つである篠山城趾は道を挟んだ市役所の前に建っている。篠山城を語るうえで、同市内にある八上城の歴史は欠かせない。

 室町時代から戦国時代にかけて、篠山の地は波多野氏が治めていた。別名・丹波富士と称される高城山に八上城を築いたのが波多野氏である。

篠山城の大書院
篠山城の大書院

 1526年から1579年までに八上城をめぐる戦いが5度勃発。波多野氏は細川、三好、松永という丹波周辺の有力な武家から戦いを挑まれながらも、すべて勝利した。天下統一を進める織田信長は、明智光秀に波多野氏の攻略を命じ、1578年12月から城攻めを開始した。波多野氏は奮闘したものの、兵糧攻めなどにより、1579年6月に落城。織田信長が丹波を平定した。

 波多野家から明智家、本能寺の変後は、浅野和泉守・余江長兵衛、前田茂勝が八上城に入城。1608年に前田茂勝が改易され、松平康重が入城した。

 徳川家康は、西国大名を抑えるための要所として中心地であった「笹山」の地を選んだ。1609年に普請総奉行・池田輝政、縄張りを築城の名手・藤堂高虎がそれぞれ担当し、天下普請として15カ国、20の大名の夫役、総勢8万人が動員され、6カ月で篠山城が完成。八上城は廃城となり、拠点が篠山城に移った。当地は篠山藩主として、松平家と青山家が城主をつとめた。現在、篠山城址は、国の史跡に指定されている。

 篠山城址周辺は、前述の通り、市の中心地にあり、観光スポットと飲食店が多数集結している。

 「丹波篠山の名物は?」と聞くと、真っ先に名前が挙がるのが、牡丹鍋である。牡丹鍋とは、猪の肉を味噌ベースの出汁で炊く鍋料理である。以前はクセのある匂いや風味もあって、“食通”を中心に食されていたが、ジビエブームや肉処理技術の向上により、より幅広い消費者に需要が広がっている。取材当日、城址近くの専門店で牡丹鍋をいただいた。豚肉よりあっさりして食べやすく、「また食べてみたい」というのが率直な感想だ。

牡丹鍋屋
牡丹鍋屋

    ほか、丹波栗、山の芋、黒枝豆、黒豆、松茸、丹波茶、丹波篠山牛など食を中心とした名産品が多数存在する。優れた逸品がありながら、近畿地方以外の地域では、認知度が高くない。商家など城下町の面影が残る美しい街並みで、老若男女が当地を訪れているものの、もっと訪問者を招くことができるのではないだろうか。

 優れた食の資産を有する丹波篠山市の活性化のためには、食の6次産業化の推進─丹波篠山の食を身近に全国の消費者へPRすることで、“まち”そのものへの関心を高める必要がある。丹波篠山市は大阪・兵庫および京都から1〜2時間以内とアクセス良好で、近畿地方以外の方々も、足を伸ばせる立地だ。丹波篠山の食のブランド力を官民一体で高めて、商売に連動させてもらいたい。

 丹波篠山市市街には、古民家を有効活用したシェアオフィスや店舗が点在していた。以前、20代から30代前半の方々に話を聞いた際、「古民家や町家など、日本古来の建物は奥ゆかしいですね。大変すばらしい空間で、大切にしてのこしていきたいですね」という声を多数聞いた。個人的には、行政による助成など支援策を整備することで、移住者が増加する可能性を秘めている街だと感じている。

【河原 清明】

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