猪木逝く 昭和は遠くなりにけり

    あのころ、午後8時になるとみんなが固唾をのんでテレビを食い入るように見た。ブラウン管に映し出されるのは、興奮のなかでのハラハラ、ドキドキ。その後の爽快感と満足。
 主役は黒いタイツのプロレスラー力道山。外国人悪役レスラーの反則と隠し持つ凶器攻撃に晒される豊登は苦悶の表情、額からの大量出血。そんな相棒のピンチを豪快な空手チョップで救い出す。大人も子どもも手に汗を握り、悲鳴を上げ、興奮し、熱狂した。

 視聴率は毎回60%超。そんな主役がある日突然、あっさりと国民の視界から消えた。飲酒の上でのケンカが死の原因だった。彼の去った後には虚しさだけが残った。しかし、力道山の足跡はあまりにも大きかった。彼は死んでもヒーローのままだった。たった1人の英雄の死とともに、プロレスそのものが消え去ろうとした。

 そんなプロレス界を引き継いだのが、力道山門下のジャイアント馬場とアントニオ猪木だった。ぽっかり空いた大きな隙間を埋めようと2人はタッグを組んで興行にあたった。しかし、その後、利害と思惑の違いが複雑に絡み、2人は袂を分かった。

 先行したのは馬場の全日本プロレスだった。一方の猪木は新日本プロレスを旗揚げしたものの、当初はテレビ放映もなく、有力な外国人レスラーの招聘もままならなかった。そんな苦難の紆余曲折を乗り越えて、猪木は再びプロレスの黄金時代を築いた。1970年代、猪木は格闘技界のヒーローへの道を走り出した。伝説の鉄人ルー・テーズとの対決。モハメド・アリとの異種格闘技戦。年月の経過とともに、猪木の頭上の輝きは大きくなり続ける。

 猪木の人生の特異な点はその全編にスリル、バイタリティー、激動が溢れていたことだ。幼少時に父を亡くし、家業の破綻もあって母とともに一家でブラジルに渡り、十代前半から過酷な肉体労働の日々を過ごした。

 17歳のとき、サンパウロに興行に訪れた力道山が肉体労働で鍛え上げられた猪木の体に目を付け、直接スカウトした。その後、読売ジャイアンツから2m越えの身長でプロレス入りした馬場正平とともに半ば理不尽な力の育成法で心身を力道山に鍛え上げられ、ともにプロレス界をけん引するまでに成長した。

 猪木の持ち味はあくなき行動力だ。95年には力道山の故郷でもある北朝鮮で二日間、38万人を集めたといわれる伝説的な興行を成功させた。彼は三度名前を変え、四度結婚し、国会議員になり、少なくない顰蹙をものともせず、イラクや北朝鮮を訪問した。はたまた、テレビカメラの前で繰り広げる闘魂注入ビンタのパフォーマンスで幅広い世代の笑いと人気を得たりもした。

 そんな猪木の人生は通りいっぺんの毀誉褒貶では語れない。彼の価値はその死に近い日々に至るまで、飽きることなくあきらめないメッセージをファンに贈り続けたところにある。

 加えて注目すべきは彼の決断力と企画力だ。この2つが無ければどんな世界でもことの実現は難しい。恩師との別れ、盟友との決別、新たな世界への挑戦。力道山の死によって消えかけたプロレスの火は彼によって新たなスタイルで再生した。

 彼の行動力はたたき上げの創業者たちの成功人生にも似ている。しかし、その創造力と変化対応力は彼らをも上回る。彼はその人生のあらゆるシーンで挑戦と創造を実行した。特筆すべきはモハメド・アリとの異種格闘技戦だ。出来レースだ、みっともない戦い方だ、後味の悪い結末だとの酷評もあったが、その実現の陰にある大いなる営業力に目を向ければその実現がいかに容易ならざるものだったかは想像に難くない。

 猪木の人生はそんな挑戦で綴られ続けた。その行動力があったればこそ、彼のパフォーマンスには少なくない共感が寄せられた。コンゴで猪木に送られたイノキ・ボンバイエ(やっつけろ)を少なくないファンはイノキガンバレ!と聞いた。以後、そんな声援が多くの人々からリングの猪木に送られ続けた。彼はプロレス界だけでなく、多くのスポーツ、芸能、文化各界の著名人と交流し、多くの人の記憶に刻み込まれた。

 猪木の最後の見事さは、「こんな姿はみんなの前に見せたくない」と絞り出すように言いながら、リング上とは真逆の肉体的老醜をテレビカメラにさらしたことだ。強靭な精神が支える、常に前向きの信念なくしてできることではない。

 それから間もなく猪木は還ることのない旅に出た。生老病死。彼は人生のすべてのシーンで克己の人だった。

 アントニオ猪木。幾分元気のなくなった我が国に「元気があれば何でもできる! 一・二・三 ダーッ!」と彼は天国から叫び続けるのだろう。

(了)

【神戸 彲】

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