2024年04月29日( 月 )

「いかに良い社会的資産を残すか」元福岡市幹部の回顧録(前)

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着工から28年を経て、「アイランドシティ」完売

提供:福岡市港湾局
提供:福岡市港湾局

 福岡市は8月26日、今年6月から公募していたアイランドシティみなとづくりエリア「2.7ha 区画」の分譲予定者が決定したと発表。これにより、まちづくりエリアも含めたアイランドシティの分譲地は完売となった。

 同区画の分譲予定者となったのは、西日本鉄道(株)を代表とし、日本貨物鉄道(株)(JR貨物)で構成されるグループ。主な使用目的は倉庫・配送センター用地等となっており、延床面積7万9,045m2の6階建ての倉庫1棟を建てる計画。分譲予定価格は62億2,878万3,222円となっている。今後は基盤整備の進捗に合わせて2026年度に土地売買契約を締結し、土地処分議案の福岡市議会への提出および議決を経て土地が引き渡される予定で、その後に着工。29年4月の操業開始を予定している。

 本誌vol.36(21年5月末発刊)でも紹介したように、アイランドシティ整備事業は、1994年7月に埋め立て工事が着工したことでスタートした。同整備事業では、南北に走る臨港道路アイランドシティ1号線を境に、西側が埠頭用地や港湾関連用地などで構成される約209.5haの「みなとづくりエリア」(みなと香椎地区)、東側が住宅地や産業用地および公園などで構成される約191.8haの「まちづくりエリア」(香椎照葉地区)と、島の東側と西側で異なる開発が進められた。02年には島内の道路が一部開通し、03年には国際コンテナターミナルが供用開始したほか、みなとづくりエリアに民間企業(物流施設)が進出。05年12月には、まちづくりエリアである「照葉のまち」の住居への入居開始によって、まちびらきを迎えた。

 こうして整備事業が進んでいったアイランドシティだが、その一方で当初はアクセスの悪さなどから分譲地の売却が難航。12年3月時点で福岡市が試算していた事業収支は、160億円の赤字の見通しだった。

 その後、福岡市立こども病院や青果市場の移転・開業や、アイランドアイなどの新たな商業施設の誕生によって、アイランドシティ内の施設・機能の充実が図られたほか、21年3月に開通した福岡高速6号線・臨港道路アイランドシティ3号線(通称:アイランドシティ線)をはじめとした道路インフラ整備などの進行で、事業用地としてのアイランドシティの評価が上昇。近年の物流用地の需要の高まりなども受けたことで、今回の完売へと漕ぎ着けた。最終的な事業収支については、分譲収入の増加などにより約150億円の黒字となる見込みで、12年3月時点での収支見込みから約310億円の改善となったかたちだ。

 とはいえ、ここに至るまでの道のりは、決して平坦とはいえなかった。今回、市職員時代に臨海部の埋立事業の実務などに携わり、現在は博多港開発(株)・相談役を務める瀧口研司氏の話を基に、事業者である市側の視点からアイランドシティおよび百道浜の開発史を振り返ってみたい。

博覧会&ホークス誘致を契機に、シーサイドももち開発が好転

シーサイドももち
シーサイドももち

    本誌vol.47(4月末発刊)でも触れたように、博多港の臨海部はその大部分が埋立地であり、箇所ごとに用途に応じた埋立事業が進められてきた。そうしたなか、アイランドシティ以外での福岡市内における臨海部の大規模開発事例として、真っ先に思い当たるのは、福岡タワーや福岡PayPayドーム、ヒルトン福岡シーホークなど、福岡のシンボルが集まる市街地西部のウォーターフロント開発地区「シーサイドももち」だろう。

 同地はもともと1950年代の半ばごろまでは、大勢の海水浴客で賑わう、市民憩いの場であった。そこに大きな転機が訪れたのは80年代に入ってからで、福岡市の市制施行100周年の記念イベントとして89年に開催された「アジア太平洋博覧会」(通称:よかトピア)のために、81年から約140haの埋立事業がスタートしたのが始まりだった。

 もっとも、同地における埋立計画自体がもち上がったのは遡ること60年のことで、国の港湾審議会による港湾計画で、百道地区の129万m2の埋立が盛り込まれていた。当時の港湾計画では、博多湾を埋め立てて臨海工業地帯をつくることが計画されており、そのなかで百道地区は新たな工業地帯で働く人々を含めた人口増に対応するための、住宅地として位置づけられていた。だが、その後に福岡市が工業化ではなく商都としての発展の道を選んだため、臨海工業地帯を造成する計画は消滅。その後、前述したように博覧会の開催を1つのきっかけとして埋立事業がスタートし、86年9月までに埋立が完了。博覧会のモニュメントであった福岡タワーを始め、各種パビリオンが建設されるとともに、周辺道路などのインフラ整備も併せて進められ、現在のシーサイドももちの原型が誕生した。

 ただし、埋立事業のような大規模な土地造成は、博覧会という一過性のイベントのためだけに行われるべきものではない。その跡地利用も見据えたうえで行わなければならないのだが、埋立事業が進行している最中は、跡地予定地の売却に苦戦した模様だ。瀧口氏の話によると、当初の計画では博覧会跡地は住宅街として整備される方針で、博覧会開催時には同時に住宅展示場も設けられていたという。

 「土地の売却は当初、かなり難航したことを鮮明に覚えています。事態が好転したきっかけは2つあり、1つは博覧会の開催をきっかけに大手企業が百道というエリアに関心をもってくれ、その後のIT企業などの進出が進んだこと。もう1つは、ダイエーが球団を誘致してくれたことで、その後のドーム建設などが進んでいったことです」(瀧口氏)。

 瀧口氏が話すように、博覧会の跡地は百道浜エリアと地行浜エリアとに分かれ、住宅地だけでなく、商業地や公園などに転用する再整備が進行。とくに百道浜エリアでは、研究開発型の企業を集積させる「ソフトリサーチパーク」ゾーンを整備する方針により、90年3月に全体面積5.8ha・6区画で進出企業の公募を開始。日本電気(株)(NEC)、(株)日立製作所、富士通(株)、松下電器産業(株)(現・パナソニック(株))、日本IBM(株)・(株)麻生、大宇(韓国)・(株)福岡シティ銀行(現・(株)西日本シティ銀行)の6企業グループの進出を実現させ、その後もIT企業の集積が進んでいった。

 また一方で、ダイエーが大阪本拠地の「南海ホークス」を買収し、プロ野球団「福岡ダイエーホークス」として福岡に移転させ、同時に地行浜の埋立地で大規模な商業施設の開発を行う計画を発表した。当初は新たな本拠地として使用する「スポーツドーム」と、屋内遊園地などを有する「アミューズメントドーム」の2つのドームのほか、リゾートホテルを建設するという一大プロジェクトだった。整備が着々と進められ、93年3月に開閉式屋根をもつ多目的ドーム球場「福岡ドーム」が開業。95年には隣接する「シーホークホテル&リゾート」も開業し、一連の商業施設群「ホークスタウン」が誕生した。

 だが、折しもバブルが崩壊し、母体であるダイエーグループも経営上の深刻なダメージを受けたことで、予定されていたもう1つのドーム「アミューズメントドーム」の計画は中止に。代替策として、ショッピングモール「ホークスタウンモール」が2000年4月にオープンした。その後、ダイエーグループの経営悪化がさらに深刻化し、04年には球団の経営権がソフトバンクへと売却。15年1月には三菱地所(株)が「ホークスタウンモール」の信託受益権を取得して再開発計画を打ち出し、18年11月には商業施設「MARK IS 福岡ももち」として生まれ変わった。

 住宅地開発においては、本誌vol.25(20年6月末発刊)でも紹介しているが、福岡市と積水ハウス(株)を含めた開発7社により、福岡を代表する高級住宅街の1つとしての開発が進行。世界的に著名な建築家らの設計による個性的なマンションが次々と建てられたほか、戸建住宅ゾーン(209区画)では緑の生け垣や御影石の石積みを連続させて美しい街並みが演出された。

 こうして最終的にシーサイドももちエリアは、高級住宅街やIT企業が集積し、福岡タワーやドーム球場を擁する福岡のシンボリックかつ先駆的なエリアへと生まれ変わり、現在に至っている。 

(つづく)

【坂田 憲治】 

(後)

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