2024年10月13日( 日 )

シフトライフ、100億円へ王手 樋口社長の経営原点をたどる(前)

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感涙を漏らすのは本人ではない、筆者なり

(株)シフトライフ「18期感謝の集い」    2023年9月14日、ホテルオークラ福岡にて(株)シフトライフ(福岡市中央区)の「18期感謝の集い」と銘打ったパーティが、100名の顧客・関係者を招待し盛大に開催された。演台に立った樋口由紀夫社長は、「20期目には売上高100億円へ挑戦します」と、堂々と宣言した。出席していた施工会社や設計事務所、金融機関など、「アメイズ」マンションに関係する人たちからどよめきが起きた。30年の付合いがある筆者も、樋口社長の大胆な経営方針を耳にして内心、驚愕した。根は非常に慎重な男だ。デベロッパーの先輩経営者たちに共通する思考は大法螺だが、樋口社長は彼らから学び「自己研鑽」に励んできたのであろう。

 その研鑽の内容について述べると、①先輩たちのような「俺が俺が」という我欲がない、②社会奉仕精神が豊かである、③失敗から徹底的に研究し掘り下げてきた、④市場に関する勘は非常に卓越していた、ということになる。この4点が由紀夫社長の経営原点であり武器になっている。筆者は、樋口氏がこれらの資質を磨き上げるさまを目撃できてきたのは、彼と肝胆相照らした付き合いを継続できたからである。

 06年8月シフトライフが設立された。スタート期の本社は博多区博多駅南にあった貸事務所であった。たびたび訪問したが、正直にいえば、樋口社長は当時、一抹の不安を抱いていたように感じられた。その不安な船出からパーティの席上での自信溢れる姿に至る様子を見ながら、樋口社長との30年間の事柄が走馬灯にように回顧された。だからこそ、我がことのように感激し涙を流したのである。

原点は故郷・日田市

(株)シフトライフ 樋口由紀夫社長    樋口社長は九州産業大学工学部建築科を卒業して、福岡に残らず故郷日田市で就職した。設計士として腕前を発揮していく。そのデザインセンスが見込まれて、地元の別の会社に設計課長としてスカウトされる。プロとして30歳まで極めた実績がその後、大きな武器となった。ただ当時、「単なる設計士としてビジネス人生を全うして良いのか」と自問を繰り返す毎日を送りながら悶々とし、「やはり事業の中核を担いたい」という欲望に駆られていた。そして、「福岡へ行くしかないな」と決断。決断すれば行動は凄い。

 1990年に新生住宅(株)に入社した。事業推進部長の肩書である。いうなればスカウトである。当時、この会社はマンション業界では福岡の牽引車的存在であった。このころに筆者は樋口氏と知り合った。この会社において「まずは事業の根幹を携わりたい」という樋口氏の希望がかなった。8つのマンション事業計画を自ら主導で立ち上げた。その時点は「福岡にでてきたのは間違いない」と確信した。だが、オーナーの公私混同経営に嫌気がさした。幹部たちもまた会社を食い物にしており、それにも怒りを覚えた。ここで学んだことは、「もし経営者になるのならば、絶対に自分優先ではやらない」ということであった。グッドタイミングで上司から誘いがあった。95年3月のことだ。「樋口君!独立するぞ。副社長の肩書で力を貸してくれ」というのである。1つ返事でOKした。

(つづく)

(中)

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