2024年04月29日( 月 )

経済小説「泥に咲く」(13)人生の大転換

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 主人公の経済的な挑戦と人間的な成長を描いた経済小説『泥に咲く』。手術からの回復、教育施設の創設、病院経営への進出といった多様な試練を経て、主人公は社会的出来事や人間関係を通じた自己発見の道を歩む。これは、経済的成功と個人的成熟の両面での自立を目指す主人公の旅路を描いた、実話に基づく成長物語である。

人生の大転換

 勢事はまず智徳学園の活動について話をする。もう、幾度となく語ったストーリー。人がどこで感動するかは十分すぎるほどわかっていた。施設に来るまで鉛筆さえ持てなかった子が、今では読み書きも、簡単な計算もできるようになった実話。彼が母親に宛てた手紙を読み上げると、およそ3割が鼻をすすり上げる。

 観客の心をしっかりとつかんでおいて、次は脳卒中の話だ。作業療法士として、症例は山ほど診てきた。資料を見せながら、その怖さを説明する。

「脳卒中はね、症状が突然起こるのが恐ろしいところなんです。それまでなんでもなかったのに、急にガーンと激しい頭痛がする。私、何人にも話を聞きましたが、本当にハンマーで殴られたような痛みなんだそうです」

 客席の高齢者たちが一様に眉をしかめる。

「そしてね、次は片方の手足に力が入らなくなったり、呂律が回らなくなったり、片方の眼の前が真っ暗になったり、物が二重に見えたりといった症状が出ます。ここまで来ると、もう危ない。すぐに救急車を呼んでください。遅れたらアウト。意識がなくなって、回復しないままあの世行き、というのも珍しくないんです」

 口に手を当てて、うなずいている女性たちを見ながら、勢事は完全に場をコントロールしている感覚に満足する。

「こうならないためにはね、そう、日頃から健康に気を遣ってくださいね。ちょっとこのグラフを見てください」

 プロポリスを飲んでいる人と、飲んでいない人の脳卒中にかかる確率を表したものだ。プロポリスは当然、ネイチャーホールのメイン商品である。

「いいですか、皆さん。どうか、健康で長生きしてください。そのためには何をすべきか。もう、皆さんはわかりますね。ご清聴、ありがとうございました」

 拍手の渦のなか、ステージを降りて楽屋に戻る。入れ替わるようにして小早川が登壇する。

「はい、岡倉先生のお話、すばらしかったですね。今日はですね、今、先生がお話になっていたプロポリスの1週間分を、なんと皆さんに無料で差し上げます。今日だけ、ここだけの大サービスです。欲しい方、元気に『ハーイ!』と声を出しながら、手を挙げてくださいね。いいですか。さあ、プロポリス、欲しい人!」

経済小説「泥に咲く」(13)人生の大転換

 パーテーションの隙間から客席をうかがっていた勢事は、その光景に再び鳥肌が立った。ほとんど全員が、大声で「は――い!」と叫びながら、手を挙げている。集団心理というやつは、こうも見事に作用するのかと、感動さえ覚えた。

 若いスタッフが小さな袋を会場の客に配っていく。半分ほど行き渡ったところで、小早川が「皆さん、ステージに注目してください」とアナウンスする。

「プロポリスはね、続けてこそ意味があるんです。そのお試しを飲んでみてからでもいいんですが、もし今日、長期の契約をしてくださった方には、なんと2割引、いえいえ3割引でご提供いたします。この会場にお越しくださった方にだけの特別なサービスです。昨日もね、皆さんご契約されてお帰りになりました。じゃあ、聞きますね。元気な声で『ハーイ!』をお願いします。プロポリスの年間契約、なんと3割引、これ、欲しい人!」

 またもや「は――い!」の声とともに多くの手が挙がる。もちろん、このなかにはサクラも入っているのだろう。しかし、それを差し引いても、とんでもない売れ行きだ。

 それにしても、小早川の語りのうまさには感心した。そもそも、イベントは今日が初日なのに、のうのうと「昨日の客はみんな契約した」と平気で嘘を言う。しかも、その嘘が板についていた。

 販売コーナーは、いつの間にか契約のテーブルとなっていて、そこにまた人が並び始める。その行列は、すなわち金だ。勢事は思わず息を飲んだ。

 呆然と立ち尽くす勢事のもとに、小早川が寄ってくる。

「先生、ありがとうございました。すばらしい講演でした。それはほら、この行列が証明しています。それで、講演料をお渡ししたいので、あちらのほうに」

 勢事は促されるままに楽屋に入る。小早川は胸ポケットから茶封筒を取り出した。

「本日の講演料、50万円です。こちら、領収証にサインと印鑑だけ、お願いします」

 事前に言われて持ってきておいた三文判を押す。

「あと、今日、取れた契約の歩合の分に関しては、後ほどお知らせします。いやあ、岡倉先生、この結果はうちの社長も喜ぶと思います。しっかり報告しておきますね。お帰りは別のスタッフに送らせますので、本当にありがとうございました」

 勢事は夢見心地で、ネイチャーホールの社用車に乗り込んだ。人生というストーリーの場面が大きく転換するのを感じながら……。

(つづく)

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