経済小説『落日』(52)怪文書1
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谺 丈二 著
「石井社長、変な文書が回ってきましたがもうご覧になりましたか」
石井一博を関連会社部係長の前田幸作が訪ねてきたのはある週末の昼下がりのことだった。
「何のことだい?」
「いえ、大した内容じゃないんですが、もしお手元に届きましたら、すぐに廃棄していただけませんか」いぶかる石井に、前田は詳しくその内容を説明せずに部屋を辞した。
石井がいわゆる変な文書を手にしたのはそれから数日後だった。世間的には怪文書ともいわれるその文書はA4の紙にワープロで書かれたものだった。差出人には「朱雀屋正常化委員会」とあった。
「皆さん、みんなで力を合わせて、この逼迫した井坂体制を改革しましょう」という文章で始まるその文書には、一部の幹部しか知らない朱雀屋内部の問題が驚くべき正確さで書かれていた。新規事業に代表される井坂の経営の不具合だけでなく、銀行出身のある役員が朱雀屋金融子会社から十年据え置きの無金利で金を借り、それを元手にゴルフの会員権を買ったなどという、普通の社員ではとても知りえないことまでしたためてあった。
石井は一通り文書に目を通すと軽くため息をついた。過去、朱雀屋はこの手の話は皆無の会社だった。朱雀時代でもそのワンマン人事に対しての不満は少なくなかったが、文書にしてそれを糾弾するという行動は一度もなかった。
一般社員が持つ組織情報というのはだいたい、断片的なものであり、その大半は一笑に付すべきレベルのものである。しかし、それがつなぎ合わされると次第にその姿を変えて行く。あっという間に怪文書の噂は社内を駆け巡った。
もちろん、井坂にもその文書は届いていた。一通りそれに目を通すと井坂はそれをデスクに置いた。
「朱雀家の差し金か」
社長応接室のソファーには犬飼と牧下、太田の3人が苦虫をかみつぶしたような顔で座っていた。
「少しは考えて動け。ちんけなことで騒ぎ立てられて、はずかしいとは思わんのか。銀行だったら命取りだ」
井坂が犬飼に目を固くして言った。
「申し訳ありません」
半ばふてくされたような口調で犬飼が井坂を横目で見ながら言った。
「出もとが社内か社外か知らんが、この類のものは2弾、3弾と続くもんだ。自重しろ」
3人が出ていくと井坂は秘書室長の戸田を自室に呼んだ。
「太田と牧下にはほかに問題はないのか」
「ありていに申し上げれば・・」もったいぶった口調で、戸田はメタルフレームのメガネの鼻パッドを中指でずらしながら言った。
「文書の中身は社長の部分を除いてほぼ事実です。そして怪文書が次に狙うとすればおそらくカネに加えて女性問題です。太田常務には創業家から投資運用資金を預かって返還請求されても、それを一向に返還しないという噂があります」
「牧下は?」軽く舌打ちをした後、井坂が言った。
「専務は今まで何回か酒の席で問題を起こしています。つい最近は取引業者からの接待の席で同席した女性にセクハラまがいの行為をして、詫び状を取られています」
戸田は淡々とした口調で続けた。
「あ、それからソウル郊外のカジノで取引先の幹部と賭博に興じているのを、たまたまそこにいた別の取引先の幹部に目撃されています」
「どうも掛け金を向こう持ちで遊んでいたようで」
「証拠はあるのか」
「はい、写真つきの投書がありました」「君は秘書室長という立場にいながら、今までどうしてそんな大事なことを報告しなかったんだ」
「一応、プライベートな部分でもありますし」
「役員にプライベートもくそもあるか。太田の問題は事実ならすぐけじめをつけさせろ。牧下の詫び状はカネと取引に関する条件で取り返して来い」井坂は憤然と戸田を睨みつけ、吐き捨てるように言った。井坂の予想通り、内部告発の文書はさらに続いた。
坂倉という男が会社をダメにした
皆さんもご承知のように、この男は朱雀屋に修復不可能なほどの傷を残しました。T大出身で有能なコンサルという触れ込みで、井坂社長に取り入ったこの男は、実にいい加減な拡大戦術を提案し、それを利用して、私腹を肥やすことに精励しました。しかし、この事実を把握しながら、朱雀屋経営陣はその行為に何ら法的措置をとることなく、さらに犯罪者を庇うようにこの男に追加報酬まで与えました。坂倉はおそらく、朱雀屋のばかさ加減を嘲笑いながらこの地を去って行ったことでしょう。
経歴詐称もささやかれるこの男に現経営陣は異常な権限を与え、会社の寿命を縮めるも同然の仕事をさせました。どんな仕事にも失敗はつきもので、それは許されるものでもあります。しかし、この件に関しては論外です。井坂社長は徹底糾弾されるべきです。我々は井坂社長の放漫、かつ無責任経営を追求すべきと考えます。皆さん、勇気をもって立ち上がりましょう。
朱雀屋風土改革委員会
怪文書にコメントを出したのは、名指しされた当人たちでも朱雀屋の人事、総務部でもなく、意外なところだった。
『自分たちの職場は自分たちで守ろう』
先日、連続して、当社の各店舗に現経営陣を誹謗中傷する文書が送りつけられました。その内容はまったく根拠のない、完全なでっち上げともいえる卑劣なものです。これは井坂体制の下、喜びと輝きに満ちた未来に向かおうとしている私たちへの極めて悪意に満ちた中傷です。
私たち労連は、企業と組合員の生活を守るためにこのような輩とは断固戦います。組合員の皆様、このようなデマに惑わされることなく、お客様と商品だけに目を向けて、日々の業務に頑張ろうではありませんか。
朱雀屋労働組合連合会会長 矢島浩
(つづく)
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