竹原信一緊急寄稿(11)幸福という病 ― 全体性からの乖離としての幸福概念

阿久根市議会議員 竹原信一

 中央政界が新たな転換点を迎え、政治構造が大きく揺らいでいる。そんななか、かつて鹿児島県阿久根市政を刷新し、地方から政治のあり方を問い続けた竹原信一氏から緊急寄稿を頂いた。

 日本の民主主義の在り方に大きな疑問符を投げかけてきた異色の元市長が、中央政界の激変に直面した日本国民に向けたメッセージを、連載してお届けする。

「幸福でなければならない」という幻想からの離脱

Ⅰ.幸福の幻想

 現代社会において「幸福」は目的であり、人生の指標であると信じられている。しかしこの信念は、むしろ人間を不幸にしている。なぜなら「幸福でなければならない」という思考そのものが、不幸という対概念を同時につくり出すからである。幸福を追い求めることは、常に現状の否定を前提とする。「今はまだ幸福ではない」という前提を維持しなければ、幸福は追えない。この循環が、現代人の精神を絶えず焦燥させている。幸福の強迫とは、幸福を条件づける構造的病である。

Ⅱ.「幸福でなくても良い」という自由

 人が「幸福でなくても良い」と決めた瞬間、奇妙なことに心は軽くなる。その瞬間、幸福という目標が崩れ、存在そのものが解放される。このとき起こるのは「幸福の放棄」ではなく、「幸福という幻想からの離脱」である。幸福の条件づけを解体したとき、人は初めて「ありのままの今」を体験できる。つまり、幸福とは状態ではなく、条件を手放した意識の透明さそのものなのである。

Ⅲ.全体性との断絶としての幸福追求

 「幸福を得たい」という意識は、自己を世界から切り離す運動でもある。それは「私」と「外界」を区別し、「私が幸福であるか否か」を測る構造をつくる。この分離こそが、全体性の崩壊を引き起こす。全体性とは、「私」と「世界」との境界が溶ける状態である。幸福を求める限り、人は全体から離れ、「幸福の私」という孤立した存在に閉じ込められる。それが現代の精神的孤独の根本である。

Ⅳ.幸福から静寂へ

 本来、人間は幸福を求めなくてもよい。幸福を目指さなくても、生命はすでに存在として満ちている。「満たされていない」と感じるのは、思考が自己を分離して観測しているからだ。幸福を追わず、ただ静かに在る──そのとき現れるのは、感情の高揚ではなく、深い静寂である。それは「幸福」ではなく、「統合」や「全体性」と呼ぶべき体験である。

Ⅴ.結語:幸福という文明の呪縛を超えて

 幸福を追う社会は、苦痛を排除する社会である。だが、痛みも悲しみも、全体の呼吸の一部である。それを拒むことは、世界の一部を拒むことに等しい。幸福を目的としない生とは、存在の全体を受け入れる勇気の別名である。そこにこそ、真の自由と平和が宿る。

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