福岡大学名誉教授 大嶋仁
創価学会の設立は1930年である。その趣旨は「日蓮の教えを教育に生かす」というもので、教育団体として出発したから「学会」というようだ。「日蓮の教え」を学び、これを人々に伝えることを目指す。
戦前は43年、「学会」は軍部政府の強要する神札(神道の御札)を拒否し、そのために牧口常三郎・戸田城聖らの幹部が「治安維持法違反」と「不敬罪」を理由に逮捕・投獄された。明らかな国家権力による宗教弾圧であったが、それがその後の「学会」の有り様に影響する。すなわち、この教団は国家権力の存在に怯えることがないよう、政治力を蓄積する必要を感じ、その線に沿って発展してきたのだ。
戦後復活した「学会」は、敗戦で心の支えを失った人々や極貧の人々をエネルギッシュに勧誘し、「会員」の数を見る見る増大させた。その結果、60年には日本宗教界の一大勢力となっている。そして日蓮主義に基づく政党を結成し、これを公明党と名づけた。64年のことである。
創価学会が政党をつくったのは、戦前に国家の弾圧を受けたからだけではない。その根本原理が日蓮主義だからでもある。
日蓮は鎌倉時代の新仏教の立役者の1人で、法華経絶対主義を唱えたことで弾圧の憂き目に遭っている。彼の著した『立正安国論』は、法華経を国家の支柱とすべきだと強固に主張するもので、それゆえに鎌倉幕府から危険視されたのだ。国家にとって、宗教は格好の利用対象ともなり得るが、危険な敵にもなるのだ。
法華経を国家の基礎にするという考え方は、近代においては「国立戒壇」と呼ばれる。「国による戒壇」とは事実上仏教を国教とすることだ。仏教が国教化すれば、政教分離の原則が破られる。これが危険なことは、過去の人類史が物語っている。
二・二六事件の首謀者といわれる北一輝は、法華経と社会主義と国家主義を1つにした思想の持ち主だったが、彼も日蓮主義者であった。日蓮主義の危うい点は、法華経を重視するあまり、他の思想を完全否定してしまうところにある。そういう思想が創価学会にも浸透していたからこそ、あの高熱を帯びた信者獲得のための「折伏」という過激な手段が選ばれたのだ。
身内の話をすれば、見知らぬ「学会員」が入院中の私の叔父の病室にまで押しかけてきて、「あなたは信仰が足りないから病気になったのだ。今すぐ入会すれば救われる」と強引に迫ったことがある。人の弱みにつけ込むその異常な勧誘の仕方は断じて許せないものがあった。私がこの「学会」を危険視するようになったゆえんである。
だが、そのような「学会」が70年に大きく変わった。第3代会長の池田大作が、藤原弘達の創価学会批判の書を受けて公に「謝罪」し、「国立戒壇」を撤回し、創価学会と公明党を「分離」する誓いを立てたのだ。
この決断は大変な勇気を要したにちがいないが、これがなかったなら、創価学会も公明党も生き延びられなかったにちがいない。
多くの人が知るように、以降の公明党は「平和主義・中道主義・人間主義」を掲げ、「大衆のための政治」を目指す極めて穏健な党として政界に君臨するようになった。その成果あって自民党と連立政権をつくり、ある程度まで政権運営に自らの意向を反映させることができるようになったのである。ひとえに池田大作の英断の賜物だ。
この大改革を実現した池田は日中関係の改善にも大いなる貢献をしている。68年にほかに先駆けて「日中国交正常化提言」をし、この提言を基に公明党が中国との接触を深め、72年の田中角栄政権の日中国交正常化を可能にしているのだ。
池田自身何度か訪中し、歴代の中国指導者と会談を重ね、彼が創設した創価大学は日本で初めて中国人留学生を受け入れた大学になっている。中国での池田の評価は極めてよいものなのだ。
日蓮主義に話を戻すと、これを一概に危険な思想とみなすことは早計である。北一輝のような国家社会主義者や、満州事変を引き起こした石原莞爾のような謀略的軍人を生み出したからといって、一概にこの思想を否定し去ることはできない。
同じ思想が資本主義社会からの脱却を唱えた妹尾義郎を生んでいる。妹尾は日本が軍国化していく最中に「新興仏教青年同盟」を結成し、反戦平和運動を展開しているのだ。
また今でも多くの読者をもつ詩人にして童話作家の宮澤賢治も法華経を信奉する日蓮主義者であった。前出の石原莞爾と同じく国柱会の会員だったのである。マルクス主義にも右派と左派があったように、日蓮主義もいろいろなのである。
さて、日蓮主義を調べていくと、公明党がなぜ高市率いる自民党との連立を断ったのかということがよくわかってくる。表向きの理由は「政治とカネの問題に決着をつけていないから」だが、背後に宗教問題があることは間違いのないことなのだ。公明党は国家主義を超えた普遍宗教を根底にしている。一方の高市には国家以上の価値はないのだ。
(つづく)








