福島自然環境研究室 千葉茂樹
「古文書(こもんじょ)」と聞くと、テレビ東京の番組「開運なんでも鑑定団」を連想する方が多いと思う。しかし、これらの価値は売り買いの対象ではなく、本質的には日本の文化遺産である。残念ながら日本人はその本質を見失い、重要な文化財を海外に流出させてしまった。たとえば、昨年のNHK大河ドラマ『べらぼう』で注目された浮世絵などがそれにあたる。海外では日本の文化遺産の本質が見いだされ、ジャポニスムと呼ばれるブームとなった。
地方には、そこまで有名ではないが歴史的・文化的に重要な資料がたくさんある。ところが、その価値が忘れられ消え去ろうとしている。
私は火山地質学が専門である。地質学の場合、調査地域に居住し、土木工事で地層が露出すると、駆け付けて記録をとる。この繰り返しである。そのため私を「地域の研究者」と認識されている方も多い。そして、最近では「家宝の問題」を相談されることが多くなった。
この記事では、その地方に残る資料(史料)に注目して、その保全・保管を考えていく。用語は「資料」に統一する。また、記事で使用する画像は、私の撮影した写真・所有物、および所有者から使用許可を得たものである。
日本各地に残る地域資料
日本各地には、その地域ごとの「重要な資料」がたくさん存在する。かつての日本には「家制度」があり、「先祖伝来の家宝」として守られてきた。ところが戦後、とくに高度成長期を境に家そのものがなくなり、その貴重な家宝(資料)が失われつつある。これらの家宝(資料)は、守ってきた方が亡くなると散逸してしまう。場合によっては蔵ごとが数万円で古物商に買いたたかれる。
例を挙げて考えていく。私の学術論文『裏磐梯の明治神宮』も2011年の震災で崩落し、その姿はもうない。そして、この石碑をつくった「遠藤現夢」の資料は会津若松市の遠藤家の蔵に残されている。ただ、お子さまたちが他の地域に出て行き、蔵を高齢のご婦人がひとりで守っている。もう「蔵の中に何があるのかもわからない」とのことである。
▼リンク
1888年磐梯山噴火災害からの復興の遺構 一磐梯山北麓に存在した石碑「明治神宮」(PDF)
また、私が居住する猪苗代町にも貴重な資料が大量に残されている。上記と同様にご子孫が地域から去り、この資料も失われようとしている。
資料保全の中心「博物館」
このような「地域資料の保全」に重要な役割をはたすのが各地の博物館である。皆さんのなかには、「地域資料、そんな古臭いものはいらない」とお考えの方もいると思う。ただし、現在の大問題「クマ問題」「上下水道問題」「豪雨・土石流・都市部の浸水問題」などは、人がかつての生活を捨て「利便性の追求」をした結果生じたものである。また、「上下水道問題(陥没事故など)」は将来予測される問題を先送りにして、見切り発車で工事をした結果である。
「先人の残した知恵」、すなわちそれが詰め込まれた「郷土の資料」には「学ぶべき教訓」が数多くある。この先人知恵は、日本各地で起きている問題の「解決の糸口(ヒント)」になることが多い。
貴重な資料をどう守るか──私の郷里を例として
2025年3月12日、NHKの番組「ファミリーヒストリ―鈴木砂羽」で、私の郷里が映し出された。宮城県登米市や岩手県一関市である。
番組のなかで、宮城県登米市石越の今堂(こんどう)医院が映し出され(画像1)、当主の佐藤良知・郁子夫妻が往時を語った。先祖は一関藩の藩医・曽根元珉である。元珉は日本初の外科手術をした華岡青洲の門下生で、帰郷後は私塾を開いて、華岡から学んだ医術を郷里に広めた。番組では一関市博物館の相馬貴美子氏により、元珉が使用した漢方薬「曼荼羅実(チョウセンアサガオの実)」も紹介された。曼荼羅実は、華岡青洲が日本初の乳がん摘出手術に用いた全身麻酔薬「麻沸散(通仙散)」の主要成分である。

前出の曽根元珉は岩手県の一関藩の藩医「曽根氏」の傍系で、52歳のときに佐藤家の養子になり「佐藤玄達」と改名した。この経緯は『華岡青洲の門人たち―盛岡藩・一関藩・仙台藩を中心に』(鈴木幸彦著)に詳しく書かれている。
今堂医院の蔵の資料
25年5月10日、私は今堂医院に伺い、蔵の中を見せていただいた。蔵の中には、江戸期から明治期の古文書や日用品・武具などがたくさんあった。話を聞くと、だいぶ少なくなったとのことであった。泥棒に盗まれ、また戦後に刀や鉄砲の所持でGHQに逮捕されないように、泣く泣く処分したとのことであった(良知さん談)。
このうち古文書はミカン箱50箱ほどに詰められ、そのうち約30個に整理票が貼り付けてあった(画像2)。これについては後述する。番組に出てきた一関市博物館に問い合わせたところ、「旧職員・鈴木幸彦氏が整理したもの」「博物館への収蔵の予定はない」とのことであった。

また、11年の震災前までは、敷地内に曽根元珉が華岡青洲の元から帰郷した後に医術伝搬に建てた私塾の建物や、鉄砲狭間もある塀が残っていたという(良知さん談)。
7月26日、私は再度今堂医院に伺い、良知さん夫婦とお話をした。今堂医院は7月31日をもって閉院するとのお話であった。また、「蔵の資料をどうするのか」もお聞きした。良知さんは「息子たちはこの家に戻る予定はなく、資料にも関心がない」とのことであった。私は良知さんに「登米市歴史博物館(今堂医院から南約3km)への寄贈」を提案し、良知さんも快諾した。
私はすぐに、登米市歴史博物館への資料寄贈の手はずを整えた。具体的には佐沼古文書の会・佐藤清一氏に連絡し、彼から登米市市議会議員そして登米市歴史博物館へとの経路であった。その後、佐藤氏から「博物館職員が今堂医院に資料をもらい受けに行く」との連絡があった。
今堂医院の資料を緊急搬出
私が次に帰郷したのは9月下旬であった。しかし、登米市歴史博物館の動きが鈍く、今堂医院から資料を持ち出していなかった。
10月3日、状況を確認するため今堂医院に行った。なぜか良知さんがひとりでポツンとしていた。今堂医院は予定通り7月末日で閉院した。しかし、その直後(8月上旬から9月下旬)に奥さまが体調を壊して入院したとのことであった。また、良知さんはひとりでの生活になり、食事にも困っている様子であった。このため、私は持参した健康補助食品をお渡しした。
本題の蔵の資料である。良知さんは奥さまが心配で蔵の資料はどうでもよい様子で、「持っていくなら、早くしてくれ」と話した。このため、緊急的に私がもらい受けることとし、良知さんと譲渡契約書を交わした(画像3)。また、付記として「資料は佐沼古文書の会が分析(解読)後、最終的に登米市歴史資料館に移管する」とした。この日は乗用車に積めるだけのミカン箱12箱を持ち出した。

10月7日、良知さんの様子の確認と資料持ち出しのため佐沼古文書の会の佐藤清一氏と共に今堂医院に行った。良知さんはさらに元気がなく、私が持参した健康食品だけを食べているようであった。このため、さらに健康補助食品をお渡しした。余談であるが、帰宅後、息子さんに良知さんの状況を詳細に連絡した。また、持ち出した資料についても「息子さんが管理を希望する場合、蔵に戻すことも可能である」と伝えた。
話は戻って、この日も車に積み込めるだけの資料「ミカン箱11箱」を蔵から持ち出した。この資料は、いったん登米市博物館に運んだ。博物館では、「燻蒸(虫を殺す)処理をしていない古文書は収蔵庫に入れられない」と収蔵を断られた。このため、資料は持ち帰った。
蔵から持ち出したミカン箱は「整理票の付いた23箱」で、蔵にはこの他にも薬箱や生活用品などがあった。結局、持ち出せた資料は蔵の資料の約20%であった。別の観点から見れば資料持ち出しのラストチャンスでもあった。
この後、一関市博物館の相馬氏にも状況をお伝えした。数日後、相馬氏から「息子さんは資料の譲渡を承認」「良知さんは入院」との連絡をいただいた。12月に帰郷した際も今堂医院に2度行ったが、当然、良知さんは不在であった。
一言付け加えれば、このような資料は所有者が「譲渡の意思」を示した場合、迅速に行動せねばならない。今回のように老夫婦だけで生活している場合は、短期間に状況が激変して資料の回収ができない場合がある。公的な博物館では資料の収蔵には各種手続きが必要と思うが、最速で行わなければならない。今回の登米市歴史博物館の動きがそれにあたる。ただし後述の福島県立博物館と比べれば、動いただけマシである。
(つづく)
<プロフィール>
千葉茂樹(ちば・しげき)
福島自然環境研究室代表。1958年生まれ、岩手県一関市出身、福島県猪苗代町在住。専門は火山地質学。2011年の福島原発事故発生により放射性物質汚染の調査を開始。11年、原子力災害現地対策本部アドバイザー。23年、環境放射能除染学会功労賞。論文などは、京都大学名誉教授吉田英生氏のHPに掲載されている。
原発事故関係の論⽂
磐梯⼭関係の論⽂
ほか、「富士山、可視北端の福島県からの姿」など論文多数。








