なぜ鴻臚館と福岡城は同じ場所にあるのか

 NPO法人 福岡城・鴻臚館市民の会が主催する「第17期 福岡歴史観光市民大学」が開講した。第1回講座は「鴻臚館と福岡城」と題し、福岡市経済観光文化局文化財活用部史跡整備活用課の大塚紀宜課長が登壇。同じ地に時を隔てて存在した2つの史跡について、最新の発掘調査成果を交えながら解説した。会場には80名を超える受講者が集まり、福岡の歴史資源に対する市民の関心の高さをうかがわせた。

市民の手で支える歴史講座

 福岡城・鴻臚館市民の会は、九州旅客鉄道(株)の石井幸孝元会長が理事長となり、福岡城と鴻臚館の歴史的価値を市民に伝え、保存・活用の機運を高める活動を続けてきた市民組織である。機関紙「福岡城だより」の年2回発行、年間16~17回におよぶ城内と城下町ガイドの実施、本市民大学の開催を活動の柱としている。いずれも会員の地道な取り組みによって支えられてきた。

 開講式に登壇した遠藤正雄理事長は、天守閣再建に向けた市民の機運醸成を同会の使命として語り、第17期の開講を宣言した。今期は遠方からの受講者に配慮し、開講時間を従来の午前9時45分から午前10時に繰り下げた。事前申込は100名に迫り、当日も80名以上が参加するなど、例年を上回る盛況となった。

 受講生限定の特別企画として、神屋宗湛邸にあった石庭や黒田家菩提寺である崇福寺の見学ツアーも予定されている。座学にとどまらず、現地を歩きながら歴史を学ぶ機会を設けている点も、同講座の特色である。

古代と近世が重なる舞鶴公園

 福岡市中央区城内、舞鶴公園一帯は、古代と近世という異なる時代の国指定史跡が重なり合う、全国的にも珍しい歴史空間である。大塚氏が講座の冒頭で強調したのは、鴻臚館と福岡城が「同じ場所にありながら、時代も性格も大きく異なる」という点だった。

 鴻臚館は、7世紀後半から11世紀後半にかけて機能した古代の外交施設である。外国使節を迎え入れる「いらっしゃい」の施設であり、大宰府の出先機関として国際交流の窓口を担った。一方、福岡城は17世紀初頭に黒田家が築いた近世城郭であり、敵を寄せ付けない軍事施設であった。外交施設と軍事施設という、機能において対極にある2つの史跡が、同じ場所に存在しているのである。

 この重なりは単なる偶然ではない。大塚氏は、同地が「一定の広さをもつ平坦面を確保でき、海に近く、高台でもある」という立地条件を備えていたことを指摘した。海上交通を管理する古代の役所にとっても、城下町を見下ろす近世の城郭にとっても、この地形は重要な意味をもっていた。古代の外交拠点と近世の城郭を1つの地に抱く舞鶴公園一帯は、福岡の歴史の重層性を凝縮した空間といえる。

古代日本の国際交流拠点

 「鴻臚」の語は中国に由来する。「鴻」は大きな水鳥を意味し、転じて「大きい」「広い」の意をもつ。「臚」は「伝える」「大声で告げる」を意味する。合わせて「広く大いに物事を伝える」場、すなわち外交を司る役所を指す言葉である。

 文献上、当時の日本には筑紫、難波、平安京の3カ所に鴻臚館が設けられていたとされる。しかし、考古学的に遺構が確認されているのは筑紫鴻臚館のみである。その意味で、福岡の地下に眠るこの遺跡は、古代日本の外交の実像を伝える極めて重要な史跡である。
 筑紫鴻臚館に関する文献記録では、688年に「筑紫館」で新羅の使者を饗応した記録が初出とされる。838年には「鴻臚館」の名称が文献に現れ、小野篁(おののたかむら)が唐人と詩賦を唱和したことが記されている。894年に遣唐使が廃止された後は、商人による交易拠点としての性格を強め、1047年の放火犯捕縛の記録が文献上の最終記録とされる。

 その機能は、現代に置き換えれば、出入国管理所、税関、宿泊施設を兼ね備えた施設であった。大塚氏は、羽田空港や成田空港を想起するとわかりやすいと説明した。出土遺物には、唐三彩の枕、茶を挽く茶碾、香炉など、中国や朝鮮半島に由来する品々が含まれ、当時の国際性を物語っている。

 なかでも興味深いのが、トイレ遺構から検出された籌木である。籌木は、木簡などを細く割って再利用したもので、現在のトイレットペーパーにあたる。さらに、肉食者に多く見られる寄生虫卵も確認されており、文献には残りにくい古代人の生活実態を知る手がかりとなっている。鴻臚館で行われた饗宴や、滞在した人々の食生活を考えるうえでも重要な資料である。

 現地では今年10月、北館東門の復元が完成し、一般公開される予定である。合わせて鴻臚館跡展示館は、さらに充実した展示を目指して今年度に整備工事を行い、来春、リニューアルオープンする予定となっている。大塚氏は、「リニューアル後の展示館に期待してもらいたい」と述べた。

黒田家の威信を示す福岡城

 福岡城は、1601年、関ヶ原の戦いの翌年から築城が始まった。黒田官兵衛(如水)・長政親子が関わり、7年の歳月をかけて築かれた。官兵衛は1604年に没したため、実質的な完成者は長政である。

 築城地は、赤坂・桜坂方面から伸びる丘陵の先端部であった。南側の地続き部分を人力で削り、独立した丘陵としたのが、現在の国体道路の原型となる切り通しである。完成した城は陸地部分だけで約41万m2におよび、西日本屈指の規模を誇った。

 福岡城の大きな特徴は、市街地の中心部にありながら、石垣群が良好な状態で残っている点にある。築造は本丸最深部の天守台から始まり、外周部へと進んだ。天守台は自然石を用いた「穴太積み」によって築かれている。穴太積みは、近江坂本の石工集団である穴太衆に由来する伝統工法で、天守台はわずか3カ月程で積み上げられたという。

 一方、最後の段階に築かれた上之橋御門の石垣には、表面を整形した割石が用いられている。同じ城内でありながら、築城期間中の技術的な変化を読み取ることができる点も、福岡城の見どころである。

 石垣の背後には、裏込石と呼ばれる小石が詰められている。雨水を速やかに排出する構造であり、石垣を長持ちさせるうえで重要な役割をはたした。戦国末期に確立した築造技術が、福岡城の石垣にも生かされている。

潮見櫓復元と天守台発掘

 近年の大きな成果の1つが、地下鉄大濠公園駅前に復元された潮見櫓である。この建物は明治末年に崇福寺へ移築された後、長らく別の櫓である「月見櫓」と誤認されていた。福岡市による調査の過程で屋根裏から棟札が見つかり、潮見櫓であることが確認され、2025年春に元の場所に復元された。

 復元では、土壁の構造や劣化して交換された梁の曲がりに至るまで再現された。単に外観を整えるのではなく、建物の本来のかたちや構造を忠実に復元する、密度の高い事業であった。

 また、昨年度からは天守台の発掘調査が続けられている。今回の調査で新たに確認されたのが、礎石の下に据えられた根石である。これは古代以来の伝統工法を受け継ぐもので、現在の礎石が江戸期の築城当初のものであることを裏づける重要な発見とされる。

 さらに、束柱に関わる遺構の検出は、当時の建築工事が相当程度進んでいた可能性を示している。天守をめぐる議論に直接の結論を与えるものではないが、天守台上での建築行為を考えるうえで注目される成果である。

 出土した桐文瓦も関心を集めている。桐文は、豊臣秀吉の家紋として知られる。福岡でこの文様の瓦が用いられた場所としては、名島城との関係が想起される。名島城には、豊臣秀吉の甥である小早川秀秋が入城していた経緯がある。関ヶ原の戦いで東軍勝利のカギを握った武将ゆかりの瓦が、築城当初の福岡城に転用された可能性も考えられる。ただし、出土は現時点で1点にとどまっており、今後の調査成果が待たれる。

歴史の重層性を市民に伝える

 鴻臚館と福岡城という2つの史跡を1つの講座で取り上げた今回の講義は、福岡という都市がもつ歴史の重層性を改めて考える機会となった。古代の外交拠点から近世の名城へ。同じ地に積み重なった約400年と約200年の歴史を、発掘調査や史跡整備に携わる行政担当者から直接学ぶ意義は大きい。

 会場に集まった80名超の受講者の真剣な表情は、市民大学が17期にわたって続いてきた理由を示していた。福岡城と鴻臚館は、観光資源であると同時に、福岡の成り立ちを知るための重要な地域資産である。市民が学び、歩き、語り継ぐことで、その価値はさらに広がっていく。

 次回は、九州大学の伊藤幸司教授による「記録、文学、美術工芸資料から見る中世博多」。古代の鴻臚館から始まった学びは、博多商人の世界へと歩みを進める。

【児玉崇】

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