2024年03月29日( 金 )

福岡建設業界を牽引した企業たち(1)~イムズを造った建設業者

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 A氏は福岡建設業界に49年以上の長きに渡り身を置いていたが、数カ月前に代表を務めていた会社から退き、今は「セカンドライフ」を満喫している。そんなA氏は、「昭和50年代、福岡で最も存在感のあった建設業者はどこだと思われます?」との問いに、「辻組でしょう」と即答する。

明治創業の老舗、辻組

 1894年(明治27年)、辻松之助氏によって辻組として創業されたのが九州建設のはじまり。当時の福岡市東湊町二番地で、土木建築請負業を主に手がけていた。辻氏には先見の明があったのだろう、大正時代に入ると建築技術を学ぶべく渡米し、当時最先端の欧米の建築技術や事業の在り方などを吸収。帰国後、熊本のルーテル学院や長崎の活水女学院など、各県を代表する近代化遺産リストにも挙がるような建築物を完成させた。
 歴史に残るような名建築を手がけ、受注基盤を堅固なものへと近づけてく同社。そんな同社が、その存在感を福岡建設業界に余すことなく知らしめたのが3代目代表、辻長英氏の時代ではなかっただろうか。

 長英氏は1954年西南学院大学商学部卒。身体は決して強いほうではなかったという。大学卒業後の進路は福岡銀行への入行でほぼ気持ちが固まっていたと言われており、当初建設業界への進出は考えていなかったようだ。しかし、家への思いや責任から、固まりかけていた気持ちが揺らいだのだろう。長英氏は一念発起し、学卒後さらに熊本大学工学部へと進学。56年、見事同学部の課程を修了し、同社へと入社した。

長英氏のもと100億円企業に

 長英氏が同社の社長に就任したのが72年。引き継いだ受注基盤をさらに強化し、磐石の体制を作り上げていく。A氏は「私が建設業界に入った時には、既に福岡建設業界のNo,1として認知されていましたので、堅実なその仕事ぶりや西南大学など優良取引先を複数持たれていることに対して『さすが辻組だな』と圧倒されたのを覚えています」と当時を振り返った。
 同社は一貫して民間工事主体だが、その高い施工能力は官庁工事でもいかんなく発揮された。78年の福岡県新庁舎の建設では、高松組・岩崎建設・高藤建設らと共に、全10社体制で警察棟の建設を手がけている。

 業績も右肩上がりに推移し、82年5月期には約80億円の売上高を計上し、長英氏は勢いそのまま同社を85年までに100億円企業に押し上げる計画を打ち出した。そして、掲げられたその目標は、創業95年の節目にあたる89年に達成された。計上された売上高は約108億1,100万円だった。これを機に、社名を現在の九州建設に変更した。89年には福岡を代表する商業ビル「イムズ(正式名称:天神MMビル)」に、地場福岡からは唯一建設工事に携わるなど、名実ともに福岡を代表する企業として広くその名を知らしめた。また、長英氏自身も、母校である修猷館高校昭和25年卒業生で結成する「二五会」の代表幹事を努めるなど精力的に活動領域を広げていき、業界内外に人脈を築いていった。

 福岡建設業界のトップランナーだった同社。我が世の春を謳歌するそんな同社を鮮明に覚えているA氏だからこそ、同社のM&Aという結末は衝撃的だったという。
「辻組は決して無理な仕事は受けない、言うなれば冒険はしないというイメージが強かった企業です。まさかM&Aに踏み切るとは」(A氏)。
 昭和の終わりから今日に至るまで、圧倒的な施工実績とそれを支える技術を持ち、福岡を代表する総合建設業者として名を馳せていた同社。そんな同社が下した決断からは、一つの時代の終わりが感じられる。

(つづく)
【代 源太朗】

 
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