2024年03月29日( 金 )

南木曽物語~木の文化を守り、育てるために(後)

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南木曽木材産業(株) 柴原 薫 代表取締役

 島崎藤村の『夜明け前』(1932年)の舞台となった、長野県木曽郡の宿場町・南木曽(なぎそ)。藤村が「山の中」と表現した木曽路が走るこの一帯は、古くから木曽ヒノキの一大拠点として知られてきた。しかし、輸入木材による価格破壊や人材の枯渇は名木の故郷すら存続の危機に追い詰めている。この国内林業衰退の最前線で、「祖先から受け継いだ林業を諦めてしまっていいのか」と、1人気を吐く人物がいるという。「人を動かす」というその男に会いに行った。

木一本、首1つ

国有林に根を張る巨木

 柴原氏はにこやかに車から降りてきた。精悍に刈り込んだ短髪と相手の内面を見透かすような鋭いまなざしは、まさに「山の男」といった迫力で堂々たる風格だ。全国各地を自分で運転して営業に飛び回っているという柴原氏は、つい先日も愛車スバルを駆って福島県北部まで往復したというが、まったく疲れを感じさせない。

 柴原氏の運転で、中津川駅から松本方面に木曽川沿いの中山道を走り、南木曽岳を左手に見ながら山道を登ること約40分。江戸時代の街並みをそのまま保存する観光地としても知られる宿場町、「妻篭宿」を抜けてしばらく走ると、柴原氏の所有する山林に到着した。

 柴原氏所有の山林は、広さ約120ha(36万坪)。まだ植樹して29年と浅いため、直径20cmほどの若いヒノキが多い。巻かれている銀色のテープは熊がひっかくのを防止するためだという。柴原氏が所有する材木置き場には全国から買い付けた大木も横たわっており、樹齢が100年を超えるものもある。所有林と道をへだてた地域は国有林として保護されており、せせらぎの脇に建つ椹(さわら)は樹齢約300年、胴回り5.5m高さ41mの巨木だ。

 南木曽町は面積の9割が森林で覆われ、そのうち70%を国有林が占める「木の町」。木曽の代表的な木であるヒノキ(檜)は神木として古くから神社仏閣の建設に用いられてきた。伊勢神宮の式年遷宮用木材の産地として木曽が選ばれると、同地はヒノキの代名詞として全国に知られるようになる。江戸時代には尾張藩の管理のもとで大規模な伐採が始まり、住民は御用材として納める以外の伐採を禁じられた。南木曽に残る「木一本、首1つ」という言葉が、当時の取り締まりの厳しさを思い起こさせる。峻嶮な山に囲まれた南木曽では稲作や畑作ができないため、米の替わりに木で年貢を納めていたという記録も残っている。

「天才」の息子としての苦悩

柴原氏の木材置き場には、希少価値の高い巨木が横たわる

 柴原氏は中央大学を卒業後、初代の父親が1964年に創業し育てた会社を2005年に承継した。父親は、幼少時に毎朝川に水を汲みに行くような極貧の生活から働きづめで会社を設立。投機としての木材取引に抜群の冴えを見せ、「天才」とも称された地域の大立者だったという。柴原氏は、父親が電話1本で何千万円も荒稼ぎする姿を見ながら育った。

 望んで入社したつもりだったが、偉大すぎる父の影は想像以上に大きかった。指示を出しても、会長である父親の意向ばかり気にして動かない部下との確執から、十二指腸潰瘍や片頭痛に悩まされた日々が長く続いたという。一時期は、走る車のハンドルを握ったまま動けなくなるまで追い詰められた。

 「唾面自乾」(だめんじかん)。そんな日々に疲れた柴原氏が、教えを請うた鍵山秀三郎氏(イエローハット創業者)から諭されたのがこの言葉だった。

 「顔に唾を吐かれても、拭わずに自然に乾くまで我慢しろという意味です。要するに、2代目はどんなことでも我慢しろということで、絶望的にもなりましたが、よしやってみようと覚悟も決まりました」(柴原氏)。

林業の未来をつくる

伊勢志摩サミットで使われた酒器

 柴原氏が社長を引き継ぐ少し前から、日本の林業は重大な局面を迎えていた。まず、「ヒト」の面。日本の林業を維持しようとすれば20万人が必要にもかかわらず、現実には約4万人しか確保できていない。さらに「カネ」では、木材の市場価格が輸入木材に押されて下落を続け、1955年ごろの水準まで落ちてしまっている。林業従事者の年収は約200万円で、たとえ知識や技術を習得しても林業だけでは生活を維持できないのが現状だ。

 間伐されない山は保水力が落ちて土砂崩れや鉄砲水などの災害につながる危険性があるが、思うように間伐もできないという。採算が取れないのだ。ヒノキ1本で1,000円にしかならないこともあり、人件費や燃料費をかけて間伐することは、零細企業の多い国内林業にとってリスクにしかならない。伐採にかけるお金もなく、森を維持するための植林もままならないとあっては、林業の未来を描けない。実際、ある地域では最盛期に約600社あった林業関連会社が3社にまで激減しているという。林業の町である南木曽町も、人口は往時の半分以下の約4,200名まで減少した。高齢化率は40%を超える。

和紙デザイナー堀木エリ子氏考案の、棺桶デザイン

 少しでも林業に日を当てようと、冒頭紹介したように柴原氏はさまざまなアイデア商品をつくり出してきた。2016年の伊勢志摩サミットで出された料理に添えられた酒器は、樹齢350年のヒノキを厚さ1mmまで削りこんでつくった。無垢の国産材で建てられた「風の谷保育園」(千葉県市川市)は、釘や接着剤を使用していないことで話題になり、見学者が引きも切らない。

 知己を得た解剖学者の養老孟司氏からは、「2020年東京五輪の聖火台を木曽ヒノキ製にし、五輪後に出雲大社の復元に使う」ことを提案されている。需要を掘り起こすために、「誰でも必ずお世話になる」(柴原氏)ことから、「棺桶」製造に乗り出す計画も進んでいる。著名な和紙作家・堀木エリ子氏のデザインを基に、現代風のものを生み出すつもりだ。日本の地形に適した林業機械として、高性能AIを搭載した「鉄人28号」型ロボットを開発する夢もある。実現できるかどうかは問題ではない。未来を言葉にして、次世代に伝えることが重要なのだ。木曽ヒノキ400年の歴史を絶やすわけにはいかないという、山の男の意地もある。

木の伝道師

 柴原氏は、17年11月に亡くなった父親・秀満さん(享年84)の認知症介護のために、母親と一緒に介護する日々を3年ほど送っていた。ストレスと疲れで、処方してもらう薬の量が一気に増えた。木曽の木材の良さを伝え、そして使ってもらうためにビニール袋いっぱいの薬を仕事用カバンに押し込んで、今日も日本各地の神社仏閣をめぐっている。

 文化庁の統計によると、必ずしも宗教建物の数と一致するわけではないものの、全国に神社が8万1,255社、寺院は7万7,316寺あるという(15年12月調査)。これらを対象とした飛び込み営業も多いため、営業トークもお手の物だ。柴原氏は自嘲気味にこう語る。

 「数百万円から何億円という話を、木を見る目と言葉だけでまとめようっていうんですから、人に言わせれば私はまさに山師。詐欺師みたいなものかもしれないね(笑)」。

 とんでもない。森を守り、山を再生するための思いと情熱にたくさんの人が感動し、動かされてきたことは紛れもない事実だ。柴原薫57歳、彼はむしろ木の物語を広める「伝道師」として、これからも熱を発散し続けていくのだろう。聖なる使命を帯びた語り部は、今日も愛車で全国を駆ける。

(了)

 
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