2024年05月06日( 月 )

地方スーパーの生き残り策(3)

記事を保存する

保存した記事はマイページからいつでも閲覧いただけます。

印刷
お問い合わせ

 時代を問わず我々を取り巻く状況はゆっくり、あるいは突然変化する。そして一度変化したものが、もとのかたちに戻ることはまずない。小売業の世界も同じである。とくに戦後のそれは急激かつ大きく変化した。
 そして、ここ数年の変化は、これまでの二次元的変化から三次元のそれへと大きくかたちを変えて進行している。
 戦後、ほかに先んじて高度成長した大手小売業のなかで、現在も同じような形態で存在している企業は一社もない。これは国の内外を問わず同じである。

 その昔、といってもそんなに遠い昔のことではないが、小売業は普通にモノを売って利益を出すのが普通だった。しかし、現在は普通にモノを売って利益を出すのは容易ではない。とくに従来型の小売業は、もはやモノを売っての利益だけで成長することはできなくなってきている。勝ち組といわれるイオンやイズミもこの構造は変わらない。
 その原因は、お客に利便性を提供するための質と規模の拡大である。それには経費の増大がともなう。当然のことではあるが、質や規模の膨らみに売り上げや原価率の改善が伴わないと決算は大変なことになる。安く売るという原点を忘れた大型小売業にお客は支持を寄せなかった。売り上げという原資が思惑通り手にできなかったのである。かつての大型小売業の経営が傾いたのはすべてここに原点がある。
 本業でのもうけが出なくなると大型小売業はあらゆる業種に手を出した。専門店から飲食、金融、不動産まで、その範囲は多岐にわたる。しかし、その大半はうまくいかなかった。大方の新規事業を傍流として扱ったからだった。優秀といわれる人材は本業の立て直しと称して市場から見放されつつあった従来型小売形態に留め置いた。
 経営陣に時代の声が聞こえなかったからである。いくら優秀でも生活者が否定し始めた業態をうまく運営するのは不可能である。こうして、ほとんどの企業が等しく経営不振に陥ったのである。
もちろん、それは大型店だけの問題ではない。かつて隆盛だった個人経営の衣料品専門店も変化を傍観した結果、今や風前の灯である。

成功体験を否定するのは容易ではない

 大型小売業の経営幹部にとって、成長の礎になった従来型大型店を否定するのは創業者も含めた自らを否定することと同義だった。頑張れば、やり方次第で業績は必ず回復すると彼らは思った。しかし、その希望は無残に砕けた。かの鈴木敏文でさえ、やり方次第でGMSの再生は可能であると豪語したものの、実際にそれを実現できなかったのである。同じような傾向が小売店企業の経営幹部にはないだろうか?

 その大型店だが、登場してしばらくは順調に推移した。低価格での単品、大量販売がもたらした効果は大きかった。だが、やがてその構造が変化する。
 アメリカに習った規模の拡大が競争力にそのまま転換するという理論に基づいて大量の出店を続けた結果、過当競争が生まれた。
 それはあっというまに急激な単位面積あたりの売上の低下を招いた。かつて3.3平米あたり400万円を超えていた年間売り上げは毎年減り続け、今や200万円を大きく割り込んで久しい。
小売業の販売管理費は、そのほとんどが固定費である。売上が半分になったからといって人件費や家賃、水道光熱費などが半分にはならない。
 小売業の創業者は押し並べてせっかちである。耳触りのいい結果を急ぎ求める。幹部もそれを忖度して現場に発破をかける。
 それだけが原因ではないが、大手のほとんどがブランド品の導入を始めとする高質化にかじを切った。従来のより良い品をより安くの原則に背を向け、日常使用頻度の高い雑貨や衣料品の売り場へと商品量を絞ったのである。そして、それは半ばブームのように大型小売業の間に広がった。
 一般的に言って「日常品で高いものは売れない」し「質のいいモノの購入頻度は低い」。
 市場の変化を見誤ったというより、自ら値ごろというお客が最も求めるものをその眼の前から消したのである。これに競争の激化が加わったのだから、先に述べたような売上の低下を招いたのは当然のことだった。

(つづく)

<プロフィール>
101104_kanbe神戸 彲(かんべ・みずち)
1947年生まれ、宮崎県出身。74年寿屋入社、えじまや社長、ハロー専務などを経て、2003年ハローデイに入社。取締役、常務を経て、09年に同社を退社。10年1月に(株)ハイマートの顧問に就任し、同5月に代表取締役社長に就任。流通コンサルタント業「スーパーマーケットプランニング未来」の代表を経て、現在は流通アナリスト。

 
(2)
(4)

関連記事