2024年04月27日( 土 )

オウム事件より犠牲者多い日航ジャンボ機事件

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 NetIB-Newsでは、政治経済学者の植草一秀氏のブログ記事から一部を抜粋して紹介する。
 今回は、1985年8月日航ジャンボ機事故の真相究明を訴えた7月31日付の記事を紹介する。


今年もあの日がやってくる。
1985年8月12日、羽田空港18:00発大阪伊丹空港行き日本航空123便が18時56分に、群馬県多野郡上野村の高天原山の尾根(通称「御巣鷹の尾根」)に墜落した。
乗員乗客524名のうち520名が死亡した。生存者(負傷者)は4名だった。
夕刻の便であり、お盆の帰省ラッシュとも重なっていた。死者数は、墜落事故および単独機の航空事故で世界最多となった。
1987年6月19日に航空事故調査委員会は、同機が1978年6月2日に伊丹空港で起こしたしりもち着陸事故後のボーイング社修理が不適切であったために圧力隔壁が破損したことが事故原因であるとの報告書を公表した。
しかし、この報告は信用できない。123便は外部からの衝撃で尾翼を失い、これが原因で操縦不能に陥った疑いが強い。
また、123便は横田基地に緊急着陸を検討した模様だが、着陸を断念したか、何らかの誘導により進路を山岳地帯に変更したうえで山岳地帯で墜落した可能性が高いと思われる。
それでも、123便墜落時には多数の乗客が生存していたと見られ、墜落直後に米軍機によって墜落場所が特定され、夜間の救助活動が可能であったはずだが、救助は行われなかった。

事故あるいは事件から33年が経過するいま、私たちは「知られざる真実」の解明を行う責務を負っている。

日航123便墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る
(河出書房新社・最新刊)

日本航空123便墜落事故を検証する

日航機墜落事故 米軍幻の救出劇 (米軍パイロットの証言)

などの情報を総合すると、1985年8月12日に発生した日航ジャンボ機123便墜落事件の全体像がかなりはっきりと浮かび上がってくる。
元日航客室乗務員の青山透子氏が昨年、真相に迫る著書を刊行された。

日航123便墜落の新事実

日航ジャンボ123便は8月12日18時12分に羽田を離陸。離陸後順調に飛行を続け、18時24分に大島上空を通過し、相模湾上空に差しかかっていたとき、大きな衝撃音がして機体に異常が発生した。
その模様を123便生存者で日本航空CAを務めていた落合由美氏が次のように証言している。「そろそろ水平飛行に移るかなというとき、「パ-ン」という、かなり大きい音がしました。テレビ・ドラマなどでピストルを撃ったときに響くような音です。「バーン」ではなくて、高めの「パーン」です。急減圧がなくても、耳を押さえたくなるような、すごく響く音。前ぶれのような異常は、まったく何も感じませんでした。」
「「パーン」という音と同時に、白い霧のようなものが出ました。かなり濃くて、前の方が、うっすらとしか見えないほどです。」「その霧のようなものは、数秒で消えました。酸素マスクをして、ぱっと見たときには、もうありませんでした。
白い霧が流れるような空気の流れは感じませんでした。すっと消えた、という感じだったのです。」「このときも、荷物などが飛ぶということもなく、機体の揺れはほとんど感じませんでした。

※続きは7月31日のメルマガ版「植草一秀の『知られざる真実』」第2100号「日航ジャンボ機123便墜落事故の真実」で。


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・植草一秀の『知られざる真実』

 

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