2024年05月07日( 火 )

宮川選手パワハラ騒動の本質(中)

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青沼隆郎の法律講座 第5回

 宮川選手が、「コーチの『いわれている』暴力をパワハラと認識していません」と言明したことに対して体操協会は、本件はパワハラではなく、暴力の問題であり、宮川選手がパワハラを受けた認識があるなしとは無関係の問題である、と主張した。

 この体操協会の主張は極めて悪質な詭弁であり、顧問弁護士による入知恵であることは体操協会の記者会見に顧問弁護士が同席し、肝心の応答を主に顧問弁護士が行った事実からも明らかである。弁護士の主張や論理に日本のジャーナリストが腰砕けであるいつもの体たらくを見せつけられた思いである。

宮川選手の主張の趣旨

 宮川選手は、普通の人と同じく、パワハラ=暴力という認識に基づいて発言しているのであり、暴力やパワハラの厳密な概念定義に基づいて発言したものではない。宮川選手の発言の趣旨は、「コーチの暴力を自分は暴力とは認識していません。」というに過ぎない。

 そこで、当然の如く、テレビではパワハラと暴力の概念定義が問題となった。しかし本当に問題なのは、暴力の意義そのものが問題であることは、すでに前講で指摘した。つまり、外形的・形式的に暴力行為に該当する段階の行為と、それが実質的に可罰的違法性を備えたものであるかどうかが審査された後の判断では根本的に異なるということである。

 宮川選手はまったくの素人であるから、暴力といえるためには、それが外形的・形式的な該当性を満たすだけでなく、実質的な違法性を具有すべきことなど知る由もない。従って、宮川選手、そしてコーチも自らの行為を暴力と認めてしまった。確かに有形力の行使という暴力の一要素は存在するから、彼らは暴力と認定することに疑問を抱かなかった。この素人の判断に着け込んだのが今回処分の悪質性であり、それは同時に弁護士の悪質性にほかならない。

 宮川選手(およびコーチ)が何気なくパワハラと暴力の相似性を同一性と誤解したことを極めて狡猾に利用した悪質な詭弁と非難される所以である。

念のための論理分析

 パワハラは単なる有形力の行使以外にも手段を限定せず、不当な権力の行使全般を指す。当然、被害者には被害意識がある場合とない場合があるが、それこそ、被害者の被害意識はパワハラ成立の必須要素ではない(他人に覚醒・啓蒙されパワハラと認識してもそれ自体問題とならない)。

 暴力は有形力の行使だけでは足らず、違法性の具備が不可欠である。加撃者と被撃者間に特別な事情が存在する場合―被害者の承諾がその典型例―暴力の認定は微妙である。最近の例では相撲力士による「かわいがり」が問題になったばかりである。(日馬富士事件)

 特殊な性的嗜好としてサドマゾの例もあり、これも暴力として非難されることはなく、当事者の特殊な関係と理解されている。命の危険もある、体操の練習や指導において、コーチが厳しく選手を指導する際に、有形力の行使におよぶこともあり得、それらがすべて違法な有形力の行使―暴力―と認定するには無理がある。とくに被撃者が被害を訴えない関係において第三者である体操協会が単に暴力行為の停止を注意勧告するだけでなく、コーチの資格剥奪まで行うことは、事実認定調査の杜撰性も相まって、パワハラ行為そのものである。

 体操協会の主張は、外形的な該当性だけで、事情の一切を無視して、暴力と認定し、厳しい処分をコーチに下した。その不自然さ、論理の強引さこそ、パワハラである。

 体操協会は、宮川選手の協会会員によるパワハラの存在の訴えに対して、コーチの処分は宮川選手とは関係のないこととして一切を無視した。コーチの処分と宮川選手の立場は不可分一体のものであり、宮川選手の窮状はコーチの処分に起因するものであり、宮川選手のパワハラの主張こそ、体操協会が正面から取り組むべき重大問題である。

(つづく)
【青沼 隆郎】

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。
 

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