2024年04月26日( 金 )

頻発するスポーツ団体の不祥事に何を学ぶべきか?

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青沼隆郎の法律講座 第7回

 (公財)日本相撲協会の日馬富士暴行事件から始まり、(公財)日本レスリング協会の栄和人監督のパワハラ事件、日本大学アメフト部の危険タックル事件、そして(社)日本ボクシング連盟の山根明前会長の独裁私物化問題、そして今回の(公財)日本体操協会のパワハラ問題。すべてが、スポーツの清新さとスポーツマンシップの精神とはまったく相容れない不祥事である。

 スポーツ団体には、その振興や助成を目的として多様な公金が支出される。公益財団法人の法制はそれを合法的に規定したものである。本来のあるべき姿から本質的にかけ離れている団体に、その資格があるだろうか。本質的に同質なものが、学校法人による学校経営(とくに大学経営)だ。日大事件も森友・加計問題もその本質は、“公金による助成”という背後関係があるという意味でまったく同質である。公金不正が絡む“政治犯罪”といってもいいだろう。

 民主主義の根幹である国民主権の具体的意味は、国民による三権力の監視である。立法権の監視として国会議員の選挙権はあるが、行政権に対する国民の監視権能はゼロである。議院内閣制によって、国会の多数政党が内閣を組織し、国民には直接的な内閣の監視権能がない。それでも、学者のなかには、国民は国会を経由して間接的に内閣の行政権の行使を監視することができる、と説明するものもいる。これはもはや「言葉遊び」に等しい。

 司法権に至っては完全に国民の監視外にある。立法権も行政権も未来予測に基づく権力行使のため、その当否を正確に議論することは困難である。一方、司法権は過去の事実・行為が法令に合致しているか否かの判断であるから、最も合理的にかつ公正に判断できる。しかし現実には、この司法権が国民の監視から最も遠いところにある。

 スポーツ団体の不祥事においても「第三者委員会」の設置が議論される。公金不正受給という点でいえば、司法権行使の対象となる事象であって、本来は裁判所が引き受けるべき業務である。国民は「第三者委員会」のあるべき姿を正しく理解しており、「エセ第三者委員会」を許容するほど無知ではない。にもかかわらず、不思議とスポーツ団体の不祥事が裁判所の判断を仰ぐことは稀である。

 なぜか。その理由は、現実の担当者である弁護士がまったく公益社団・財団の法制を「理解していない」あるいは「知らない」ということに尽きる。そして、公益団体への提訴は、それが同時に監督官庁たる行政庁の責任問題、つまり行政権の執行責任につながる。

 裁判所には、その出自から、行政権への伝統的な忖度が存在する。裁判官は明治憲法以来、科挙(高文試験)に合格した官吏がその本質であり、もともと司法省の下部組織であったものであり、国民の選択(選挙)によるものではない。権力行使の正当性に少なからず、疑問がある。少なくとも、最高裁判決の無謬性という民主主義原理に反する事実を国民は甘受しなければならない。司法権行使の無謬性の判断者はあくまで国民でなければならない。

 裁判員裁判法では最高裁判所の裁判官こそ、その過半数を民選裁判官にすべきであって、刑事裁判の第1審裁判官のみを民選したところで、上訴審で官僚裁判官から職権で折角の判決が逆転される現状では、辞退する民選裁判官が多数となるのも当然である。

 「第三者委員会」に求める姿こそ、国民が裁判所に求める姿である。

<プロフィール>
青沼 隆郎(あおぬま・たかお)

福岡県大牟田市出身。東京大学法学士。長年、医療機関で法務責任者を務め、数多くの医療訴訟を経験。医療関連の法務業務を受託する小六研究所の代表を務める。

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