2024年04月19日( 金 )

福沢諭吉と現代(5)

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 これまで福沢の近代文明についての見方を見てきたが、本論のタイトルは「福沢諭吉と現代」である。この問題に答えを出さねばならない。

 ところが、問題が1つある。福沢の時代と現代には大きなひらきがあるのだ。
 ひらきとは、ほかでもない、福沢の時代は幕末から明治にかけての混迷を極めた時代であったとはいっても、行くべき方向が明らかだった。西欧化以外になかった。ところが現代となると、選択肢そのものが異なる。というか、見つからない。

 福沢の時代は世界が西欧によって支配され、その勢力がどんどん拡大している時代だった。西欧の地位はそれほどに高く、他を圧倒していたのである。世界のあちこちにその勢力がおよび、アジアもアフリカもその重要部分が西欧の植民地となっていた。そのような時代に、日本がとるべき道は植民地化される前に西欧化をはかり、何とか生き延び、あわゆくば西欧列強の仲間入りをすることだったのである。

 このような時代に生を享けた福沢にとって、だから選択肢は限られていた。彼は率先して西欧化の道を選んだその俊敏な判断は評価されるが、所詮、簡単な選択だったのである。一方、現代の日本はそれとはよほどちがう歴史の局面にある。福沢の時代と比べることは難しい。

 その点では聖徳太子も同じである。太子にとって、日本の進むべき道は迷うことなく仏教導入であった。つまり、太子の場合にも選択肢は限られていた。仏教を選択しなくては永久に「未開」に甘んじるというのであれば、これを選ばない法はなかったのである。

 ところが現代は、もはやどこへ進むべきか、その判断の根拠が薄弱である。グローバル化の波は小波大波があり、時として停滞しているかと思えばまたやって来る。一方、第二次大戦後の世界を支配していた冷戦構造が終わってしまい、アメリカの1人勝ちが始まったかと思えば、中国が台頭し、他方では産油国やインドの勢力もひろがり、まことに混沌としたありさまなのだ。

 このような時代には、もはやモデルを求めようにもどこにも見つからない。日本は聖徳太子以来、常に外にモデルを求め、それを受容し、自らの血肉とすることで国づくりをしてきたのだが、そのやり方そのものがもはや役立たなくなったのである。

 では、どうしたらよいのか。自分自身がモデルとなるしかない。
 自分自身をモデルにするとはどういうことか。それにはまず、自身の姿を鏡に映してみる必要がある。ただしその鏡は、これまた借りものであってはならない。

 となると、自らの過去を掘るしかない。歴史を学ぶことだ。日本が聖徳太子の時代から何をしてきたのか。どこが上手で、どこが下手なのか。そうしたことをいちいちチェックしていかなくてはならないのだ。

 言い方を変えれば、過去の財産を掘り起こすことだ。思ってもみなかったほどの貯金があると気づくかもしれない。こんな宝が眠っていたのかと驚き、それを再開発したくなるかもしれない。私たちは、そういう時代に、確実にきている。

 福沢諭吉の存在も、そのような観点から掘り下げるべきだろう。そうすれば、きっと役に立つ宝物が出てくる。筆者自身、彼は大きな宝物を遺してくれていると思う。残りのスペースを使って、その宝物について述べたい。
筆者にとって、福沢の宝物とはその精神のとてつもない余裕である。余裕がなければ、日本が「富国強兵」に向けて必死に西洋文明を吸収しようとしている最中に、そもそもどうして西欧化しなければならないのか、などという大著は書けなかったはずだ。

 そのような著作をものするには、知識の集積では足りず、東西の歴史を眺望する大視点が必要だ。国難に遭って余裕を失っていた当時の日本人には、無理な相談であった。

 「福翁自伝」には蘭学を始めたころの思い出が書いてあるが、そこで彼は「横文字といえども人間が用いる文字である、それを解読できぬはずがない」と思ったと言っている。漢字ばかり見ていた人間である彼に余裕がなかったなら、そうしたことは平気ではいえなかったはずだ。

 福沢の時代はみながみな儒教を学び、孔子の言葉なども覚えていたが、彼は孔子の「朋遠方より来たり、また楽しからずや」をおちょくって、友たちがやって来るのを待つばかりが能ではない、こちらからも訪ねてみるべきだと言っている(「西洋旅案内」1867)。「論語」が金科玉条の時代にこんなへ理屈みたいなことが平気でいえたのも、やはり余裕なのだ。
だが、余裕、余裕といっても、どういうことなのか。

 これを示すよい文章が「文明論之概略」の緒言に見つかる。福沢はそこで「一身二生」と自分たちの時代を表現し、自分たちは昨日は漢学、仏教あるいは神道にふける封建時代の人間だったが、今日は洋書を読んであくせくし、宗教に代わって科学を標榜している。いわば1つの身体で2つの人生を生きているようなものだ、というのである。

 こんなことがいえるのは、自分の置かれている、ともすれば自己分裂を起こしかねない状況を、外側から眺め見るもう1人の自分がいなくてはならない。福沢の余裕とは、そうした第三の自分をもつことなのである。

 しかし、それにしても、東西の文明に引き裂かれた日本人は、苦痛以外のものを味わえるはずもない。精神は確実にむしばまれているのであって、これを癒す処方箋など見つからないのである。

 ところが、それでも処方箋あり、それは引き裂かれた2つの自己を比較することだ、と彼はいう。自己分裂を起こしかねない状況を外側から眺め見るもう1人の自分がいれば、苦しみから解放され、自由の境地に至れるのだ。

 これには「おまけ」がついている。福沢は分裂した自己を比較することは、他の文明の受容を経験していない西欧人には到底できまい、と舌を出しているのだ。日本人は西欧人が経験できないことを経験することで、より正確な文明の認識に達するだろう、と。

 一見大それたセリフにも聞こえるが、考えれば考えるほど当を得ている。恐ろしいやつだ、とでも言いたくなる。
 要するに、なにがあってもただでは起き上がらない。転んだと思えば、もう立っている。こうして劣勢を優勢にかえてしまう人、それが福沢だ。

 もはやこれは余裕の問題ではない。そう思う人もあるかもしれない。捨て鉢とも聞こえかねないセリフの連続である。しかし、そこに物事をより客観的に見ようという姿勢が貫いていることを見失ってはならない。負け惜しみではなく、認識の勝利を宣言しているのだ。

 現代の私たちに福沢が役立つとしたら、こうした視点転換の鮮やかさではないか。ズームも必要だが、天体望遠鏡も必要であり、その2つを肩に担ぎ、必要に応じて取り換えるのである。

 これを言い換えれば、自己自身に執着せず、ときには突き放してみることができる自由な精神の保持ということになろうか。筆者にとって何にも勝る財産であり、これを遺してくれたことに対する彼への感謝はいつまでも続くだろう。

(了)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。 

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