2024年05月06日( 月 )

人類の未来と日本(4)

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 日本文化はこれまで「文明」の思想と歴史以前の古い思想とのバランスをとってきた、そこが優れたところだ。このレヴィ=ストロースの言葉は私の財産になっている。日本に未来があるとすれば、これしかないだろうと思う。「野生」と「文明」のあいだをゆらいできた日本文化は、そのどっちともつかないところが救いなのであり、それが人類全体の救いにもなり得るのだ。

 日本文化がこれまで文明と原始の中間点に身を置き、そのバランスをとってきたことは多くの事例が示している。

 たとえば、文学を見てみよう。日本の文学を一言でいえば、自然神話の物語といえるのではないか。文明世界の端くれでありながら、長い歴史を経てきながら、四季の移り変わりを永遠の基軸とし、人間関係の濃密なドラマにはあまり関心を示さず、自然と人との出会いばかりを追求してきたのである。こういう文学は、日本のほかに見つけることは難しい。

 中国なら雲南省の少数民族にそうした文学があるかもしれない。しかし、そのような「野生の文学」は長い歴史をくぐって続けてきたわけではない。文明の力の前では弱い。

 レヴィ=ストロースが日本にきた時食べた寿司についても、同じことがいえるだろう。寿司は「生もの」と「炊いた米」を重ね合わせたもので、その両方が重なり合っているところが重要なのだ。彼には『生のものと火をとおしたもの』という著作があるが、新石器人類の基礎にあるのが「生のもの」と「火をとおしたもの」だ。この2つは文化の大きな分かれ目ともなり得るが、そのうち1つを選び、もう1つを捨てるのではなく、両方を重ね合わせたところに寿司の神髄があるのである。

 つまり、「野生」と「文明」の共存、あるいは併存が実現される。これが日本文化なのだ。

 たとえば、今後の人類は人工知能に労働をさせるとする。その場合、すべてをゆだねるだろうか。そういう人たちもいるだろう。日本の伝統にしたがえば、しかし、半分は「生のまま」にしておくことになろう。すべてを人工にゆだねることはせず、ある部分では自らの頭脳と身体を使ってはたらく。これが日本式なのだ。

 どんなに機械化が進み、どんなに機械が精巧になっても、手でつくることをやめない。これが人類の未来を確実にするもののように思われる。むろん、世の中には「絶対」もなければ、「永久」もない。人類がいつまでも存在し続けるなどとは到底思わない。考古学者や古生物学者、あるいは地学の専門家は「人類はいずれ滅びる」と言っているが、これを否定する根拠はどこにもないし、否定したいとも思わない。所詮、私たちは一定の条件があってようやく生きていける生物に過ぎない。

(つづく)
【大嶋 仁】

<プロフィール>
大嶋 仁(おおしま・ひとし)

1948年鎌倉市生まれ。日本の比較文学者、福岡大学名誉教授。 1975年東京大学文学部倫理学科卒業 1980年同大学院比較文学比較文化博士課程単位取得満期退学。静岡大学講師、バルセロナ、リマ、ブエノスアイレス、パリの教壇にたった後、1995年福岡大学人文学部教授に就任、2016年に退職し、名誉教授に。

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