20世紀初頭のイギリスの啓蒙思想家であるジェームズ・アレンは、次のように述べています。
「清らかな人間ほど、目の前の目標も、人生の目的も、けがれた人間よりもはるかに容易に達成できる傾向にあります。けがれた人間が敗北を恐れて踏み込もうとしない場所にも、清らかな人間は平気で足を踏み入れ、いとも簡単に勝利を手に入れてしまうことが少なくありません」
このようにジェームズ・アレンは述べていますが、なぜ純粋で美しい心から発したフィロソフィが偉大なパワーを発揮するのでしょうか。それは、この世界にはすべての存在を善き方向に導こうとする宇宙の意志が流れており、その流れと合致することで、物事は必ずや成長発展する方向へと進んでいくからです。
あるいは、次のようにたとえることもできます。人生を大海原を旅する航海にたとえるならば、我々は思い通りの人生を送るために、まずは必死になって自力で船を漕ぐことが必要です。
また、仲間の協力や支援してくれる人々の助けも必要ですが、それだけでは遠くにたどり着くことはできません。
船の前進を助けてくれる、この世に流れる他力の風を受けることで始めて、はるか未踏の大地をめざし、船を進めることができます。この他力の風を受けるためには、帆をあげなければならないわけですが、宇宙の意志に反するような、邪まな心であげた帆は穴だらけで、よしんば他力の風が吹いても、船は前進する力を得ることは決してありません。
それに対して、純粋で美しい心のもとにあげた帆は他力の風を力強く受け、順風満帆、大海原を航海することができます。
私は、フィロソフィを理解し、実践することが、この世に流れる他力の風を受けるための帆を張るという行為そのものであり、自分の心を美しい心に磨いていく営みそのものではないかと考えています。
そのようにフィロソフィの持つすばらしい力を理解することができるならば、自ずからフィロソフィに接する姿勢も変わってくるはずです。もしフィロソフィを共有することに対して従業員から反発を受けるようなことがあったとしても、次のように堂々ということができるはずです。
「私は根拠もなく、皆さまにフィロソフィを強制しているのではありません。私は若いころから、『不確実な人生だが、充実したすばらしい人生を送っていくことは必ずできるはずだ』と思い、どうすればそれが実現できるか、ずっと考えていました。そして、考え方によって人生が変わるのではないかと思い至り、こういう考え方で人生を生きるべきではないかと自ら体得してきたことをフィロソフィとしてまとめて、皆さまに訴えてきました」
「その結果、会社が想像を超えるまでに発展してきました。また、私自身の人生も大きく開けていきました。このことを見てもわかりますように、フィロソフィは決して間違いではなかった。結果として証明されているわけです。フィロソフィは会社の発展に貢献する哲学であるだけではなく、皆さま個々人の人生をもっと充実したすばらしいものにしていく真理ではないかと思います」。
そのように、私は従業員に向けて話をしてきました。フィロソフィの持つ力を真に理解していればこそ、フィロソフィは従業員が人生を幸せに送るためにこそあるのだと、真正面から説くことができたわけです。ぜひ皆さまもフィロソフィを語る前提として、まずはフィロソフィにはそうしたすばらしい力があるのだということを理解し、信じていただきたいと思います。
人間は自分が信じてもいないものを人に熱意をもってつたえることはできませんし、たとえ伝えようとしても、決して人を得心させることはできないはずです。
信じるとは、単に知識として知っているという程度では不十分で、自らの「信念」にまで高め、実践することが必要です。
このことを、東洋哲学の大家である安岡正篤さんは「知識」「見識」「胆識」という言葉で教えてくれています。
(つづく)