2024年04月20日( 土 )

緊縮財政の下 本当に国民の命、インフラを守れるか?

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平成は“災害の時代”だった

 振り返ると「平成」(1989~2019年)は、“災害の時代”だったといえるのではないか。10名以上の死者・行方不明者を出した主な自然災害だけに絞っても、その発生数は15件に上る(表)。

出典:国土交通省
出典:国土交通省
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 単純計算では、2年に1度は何らかの自然災害が発生し、10名以上の死者・行方不明者が出ていることになる。この数字を多いと見るか、少ないと見るかは、人によって判断が分かれるところかもしれない。全国の交通事故による死者数を見ると、毎年減少傾向にはあるものの、それでも3,500人以上に上る。死者数だけを比べれば、交通事故死のほうがよほど深刻だといえるからだ。

 ただし自然災害では、人が死ぬという人的な被害だけにとどまらず、建築物やインフラなどが破壊されるという物的な被害も発生する。その経済被害は、莫大な額に上る。東日本大震災の被害総額は16兆円以上(内閣府試算)、西日本豪雨では1兆円以上(国土交通省試算)にもなる。福岡県の年間GDPが19兆円ほど(16年県民経済計算)なので、2つの災害の経済被害は、福岡県経済が消滅するのと同等だといえよう。

 自然災害は国民の命を奪い、国民の経済力―ひいては国力までも根こそぎ奪う。平たくいえば、自然災害によって国民は死に、生き残った者は貧しくなるのである。

被害を取り戻すのが災害復興

 「激甚災害」に指定された九州北部豪雨(福岡県朝倉市など)による被害総額は、2,000億円(福岡県試算)近くに上った。東日本大震災や阪神・淡路大震災(内閣府試算で約10兆円)に比べるとさすがにケタが違うが、ローカルな被害総額としては甚大なものだ。とはいえ、「2,000億円の被害が出た」と嘆いてばかりいても仕方がない。取り戻さなければいけない。それが、災害からの復旧・復興の最も重要な中身の1つである。

 復旧・復興には、被害総額と同等かそれ以上の投資が必要になる。阪神・淡路大震災には16兆円以上、東日本大震災には35兆円以上の復興関連予算がこれまでに投じられた。「予算は国家の意思を示す」という言葉がある。国の予算を見れば、その国が何をしたいのかが見えるという意味を含んでいる。ときの首相が「内閣を挙げて復興に取り組む」などと宣言するのは単にパフォーマンスであって、実際に費用を予算に盛り込むことこそが、真の意思表示に当たる。

 何をもって復興完了とするか定かではないが、被災自治体などが策定した復興計画などが完了すれば、一応「復興は終わった」とみなすことができるようだ。それでいくと、阪神・淡路大震災の場合は10年後の2005年度に復興が完了、東日本大震災も10年後の20年度に復興が完了する予定ということになる。九州北部豪雨の復興計画は、5年後の22年度中が目標年次だ。

 ちなみに、10万人を超える死者を出した関東大震災(1923年)では、発災から6年で復興事業が完了。7年後の1930年3月に帝都復興の勅語が出されている。時間や場所、規模などが異なる災害を単純比較することはできないが、平成の復興はスピーディーとはいえないようだ。なぜ復旧に時間がかかるのかだが、単純に「国力が低いから」と考えて差し支えないと思われる。国力には、政治力、財政力、行政力を始め、危機管理能力なども含まれる。

予算を抑えることしか頭にない財務省

平成の主な自然災害
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 「国力の低さ」の一例は、「公共投資額」の低さに見て取れる。上記グラフは、1989年度から2018年度までの「平成の御世」の公共投資の推移を示すもので、しばしば引用される有名なグラフだ。これを見る限り、平成初期の投資額は増加傾向にあり、98年にピークの14.9兆円に達する。その後は減少が続き、10年度以降は、ピークの3分の1である5兆円程度で推移している。

 なお10年度は東日本大震災が発生した年だが、それ以降、基本的に投資を増やしてはいない。前半に阪神・淡路大震災、後半に東日本大震災を経験しながらも、平成年間を通して、公共投資を減らし続けてきたわけだ。平成は、「災害の時代」であるとともに、「公共投資削減の時代」でもあったといえる。

 日本政府は、自然災害が多発し、復旧復興や災害対策が必要なのにも関わらず、元手となる投資額を減らし続けてきたわけだ。なぜ政府は、このような不可解なことをするのか。たとえば、財務省の財政制度等審議会の資料のなかに、こういう文言がある。

 「公共事業については、『量』で評価する時代は終わり、選択と集中の下、より少ない費用で最大限の効果が発揮されているかという『質』の面での評価が重要な時代になっている」。

 「人口減少社会の本格的な到来も踏まえれば、予算の総額を増やすということではなく、引き続き総額の抑制に取り組むなかで、日本の成長力を高める事業と防災・減災・老朽化対策への重点化・効率化を進めていく必要がある」。

 この文章からは、「とにかく予算は減らす。メリットのある事業しかやらない」という強いメッセージが伝わってくる。防災関連はやらないとはいえないが、「重点化・効率化」という“クギ”を刺している。一見もっともらしいようにも思えるが、「本当に大事な事業で、かつ効率的にならなければ予算はつけないよ」という意図が見え隠れしている。

 財務省のこうした意見は、「緊縮財政」の考え方に基づいている。財政規律(プライマリーバランス)を遵守し、いわゆる国の借金を増やさない(減らす)という政策的立場だ。この立場の是非について、この場で論じるのは控えるが、緊縮財政という明確な政策意図の下、公共投資額が減らされ続けてきたことは、多くの国民が知っておく必要があるだろう。

「令和」を災害の時代にしてはならない

 自然災害は、前兆があれば予測はできるが、あらかじめ「いつ」「どこで」発生するかを予想することはできない。そのため、災害対策は基本的に事後対応になる。今にも崩れそうな崖、ちょっと雨が降ったら溢水しそうな河川などは、予防保全的に対策を講じる必要がある。

 政府は昨年、「防災・減災、国土強靭化のための3か年緊急対策」として、人命とインフラを守るため、3年間で7兆円を投じることを決めた。何もしないよりはマシだが、事業効果は限定的だと言わざるを得ない。

 日本全国をカバーするには、事業規模が小さすぎるからだ。かつての政府には「10年間で200兆円」を投資する「国土強靭化」の構想があったが、新たな政策は投資額比率にして約8.5%に過ぎない。「インフラなどの機能維持」に成り果ててしまった感がある。

 緊縮財政が続く限り、令和の御世でも、このような対症療法的な“行きあたりばったりな”災害対策は続いていくだろう。それは「災害の時代」を繰り返すリスクを孕み続けていることを意味する。そのような状況下で起こった自然災害は「天災」ではなく、もはや「人災」といえるのではないだろうか。

【大石 恭正】

<プロフィール>
大石 恭正(おおいし・やすまさ)

立教大学法学部を卒業後、業界紙記者などを経て、フリーランス・ライターとして活動中。1974年高知県生まれ。
Email:duabmira54@gmail.com

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