2024年05月03日( 金 )

若手起業家の育成に努めた正真正銘の「エンジェル」~オムロンの創業者、立石一真氏(前)

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 エンジェルとは、創業間もないベンチャー企業への資金提供と経営アドバイスを行う個人投資家のこと。今回は正真正銘のエンジェルといえる人物を取り上げよう。オムロンの創業者、立石一真氏である。

オムロン創業者の立石一真氏は大経営者の評価

 新聞各紙が、制御機器メーカー、オムロン元社長で名誉顧問の立石義雄氏が新型コロナウイルス感染症のため、4月21日、京都市内の病院で死去した、と報じた。80歳だった。
 義雄氏はオムロンの創業者である立石一真(かずま)氏の三男。この記事に触発されて、一真氏について、書くことにした。独自のベンチャー哲学を実践して、晩年には、京都の若手起業家の育成に努めた。正真正銘のエンジェルであるからだ。

 立石氏は、世間的にはほとんど知られていないが、経営学の世界では超有名人だ。
 世界のトップクラスの経営大学院、ハーバードビジネススクールでは、その教材に日本企業の事例が数多く登場する。独自の経営哲学を持ったリーダーとして評価が高いのが、パナソニックの創業者、松下幸之助氏とオムロンの創業者、立石一真氏。偉大な経営者は「哲学者」であれということだ。

 経営コンサルタントの大前研一氏は、立石一真氏を松下幸之助氏やソニーの盛田昭夫氏、ホンダの本田宗一郎氏に匹敵する大経営者で、「50過ぎて事を成したのは、伊能忠敬と立石一真だけ」と評している。伊能忠敬は、隠居後に前人未踏の全国測量を成し遂げ、精密な日本地図を作成した偉人だ。
 経営学の泰斗、ピーター・ドラッカーが、立石氏の斬新な管理・運営手法を称賛。初来日したとき、2人は意気投合、家族ぐるみのつきあいが続いたというエピソードが残っている。

 それほどの大経営者でありながら、世間的には無名に近いのは、テレビや自動車といった消費者向けの製品をつくっていなかったからだろう。

50歳過ぎてから開花

 立石一真氏は1900(明治33)年、熊本市に生まれる。熊本高等工業学校(現・熊本大学工学部)電気科卒。1933(昭和8)年、大阪市で立石電機製作所を創業。継電器の製造をはじめた。戦災で工場が全壊。戦後、京都に本拠を移して再出発する。
 転機は50歳を過ぎたころ。経営者の集まりで、米国には無人で原材料を完成品に仕上げていく工場があると聞いた。立石氏は後に「決定的瞬間」と語っている。
 1955年、「これぞわが道」とオートメーション(自動制御)に取り組んだ。根っからの技術者である立石氏は自動券売機、ATM、自動改札機など世界初の製品を発明し、オートメーションの先端企業として産業史に名を残した。特許出願数457件、うち権利取得数273件という数字は、技術が社会を変えるという確信の証でもあった。

 常に新しいビジネスを模索し、躍動感ある企業を理想とした。「わがベンチャー経営」「永遠なれベンチャー精神」などの著書もあり、1972年に京都の財界、金融界の出資で日本初のベンチャーキャピタル(VC)を設立、立石氏が自ら社長に就いた。

誕生間もない日本電産に投資

 立石氏が率いるVCに若い起業家が投資を頼みにきた。日本電産の永守重信氏である。永守氏は1944年、京都府向日市の農家の末っ子に生まれた。東京の職業訓練大学校(現・職業能力開発総合大学校)電気科に進んだ。

 「ヤクザでもいい。政治家でもいい。ラーメン屋でもいい。とにかくどんな仕事でもいいからトップになる」。お山の大将でなければ収まらない永守氏に宮仕えがつとまるわけがなかった。勤め先で、ことごとく社長と衝突して飛び出した。
 親分肌の永守氏は職業訓練大学校の3人の後輩を引き連れて、京都・桂川のそばの30坪の元染物工場を借りて、小型モーターづくりを始めた。1973年7月、永守氏、28歳の時である。

 起業した時点で、永守氏は手痛い挫折を経験した。10人はついてくると思ったが、行動を共にした後輩は、わずか3人。「応援する」と言ってくれた取引先も、全部逃げた。仕事もなく、カネもなく、事業はすぐに行き詰った。じんましんができて医者に診てもらうと、「自分の実力以上のことをやっていませんか」と診断される始末だった。

 だが、すぐに前を向くのが永守流だ。立石氏が社長のベンチャーキャピタルに資金を仰ぐことにした。
 わずか30坪ほどの小さな工場を訪ねてきた立石氏は、現場を見て、永守氏にこう語りかけた。「永守さん、よくここまでやりましたね。あなたは成功しますよ。私の創業時より立派なものです」と勇気づけた。

 日本電産は1975年にVCの第2号の投資先に選ばれた。立石一真氏のお眼鏡にかなったという信用力に後押しされて、次々と仕事の注文がくるようになり、危機を脱し、ベンチャー企業へ飛翔していった。

(つづく)

【森村 和男】

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